つくる会の体質を正す会
■注目の種子島経氏の特別寄稿はこちらです。(5月26日掲載)
■騒動の「構図」についての記事はこちらです。(5月10日掲載)
■騒動の「あらすじ」はこちらです。(6月6日掲載)
■「西尾幹二氏の言説の変遷」はこちらです。(6月20日掲載)
■「藤岡氏の八木氏に対する言説の変遷」は、
  (15)(6月14日掲載)、(16)(6月15日掲載)、
  (17)(6月17日掲載)、(18)(6月19日掲載)です。
■「藤岡氏の事務局員に対する文書攻撃」はこちらです。(14)(6月11日掲載)
■西尾氏に対する訂正要求はこちらです。[資料編(1)]
  (5月12日3段目掲載の記事)
■藤岡氏への再質問はこちらです。[顛末記(5)](6月4日掲載)
■鈴木氏の人物については、こちら(5月24日掲載)とこちら(7月5日掲載)です。
■渡辺記者の反論については、こちらです。(5月25日掲載)
■西尾・藤岡両氏の「謀略」の可能性の立証については、こちらです。(7月3日掲載)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
201704<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201706
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
もう一つの「つくる会」顛末記(最終章3)ー新組織の課題とは何かー
 「つくる会」騒動について論じてきたこ「もう一つの『つくる会』顛末記」も今回で最後となりました。幕引きに当たって、特定の個人の問題を越えて、組織そのもののあり方という観点から見た場合、「つくる会」には、どのような問題点があり、それを克服する道は何か。それを最後に考えてみたいと思います。


1.保守運動全体との調和と補完を考える。

 まず、なんと言っても、「つくる会」の特徴は、「1テーマ、1プロジェクトの組織だった」ということです。課題を教科書一つに絞り込み、教科書の作成と普及だけを目的として、人々が集い、全国的な運動を展開するとういう方式で、「つくる会」は爆発的な力を発揮してきました。
 しかし、そのために、教科書以外の国家的課題になると理事の間に深刻な対立が生じたり、他の運動課題との関連・軽重を無視して内部争いに熱中したり、といった事態に陥ってしまいました。したがって、これからを考えるならば、改めて、日本の保守運動全体の中における自分達の位置を見極め、全体との調和や相互補完を考えて、進退を決する組織でなければならないと思います。


2.複数のプロジェクトが発生と消滅を繰り返す場、という発想に立つ。

 考えてみると、1テーマ、1プロジェクトの組織というあり方の中に、特定の人々が自分の地位に固執したり、組織の存続そのものが自己目的化してしまう大きな原因があったように思います。したがって、これを防ぐためには、それぞれに責任者を異にする複数のプロジェクトが常時活動しており、それらが必要と効果に応じて、創られては消えるという過程を繰り返している場、そういうものとして新団体は発想されるべきではないかと思います。
 人間は失敗するものだという前提に立てば、人間が思いつくプロジェクトにも失敗はつきものでしょう。とすれば、一プロジェクトで、しかもそれを永続させようとするのは危険すぎます。多数のプロジェクトが同時に稼働し、成果の出たものは存続し、成果の出なかったものは貴重な失敗体験として教訓を総括した上で廃止し、新たなプロジェクトを創出するという新陳代謝を繰り返す、そういうプロジェクトが生まれては消えながら、そこに関わる人間たちには、体験を通じての成長の機会が常に与えられる、そういう自己実現の「場」「空間」としての「組織」。
 これなら、個人が自分の立場にしがみつくことはできませんし、役割を終えたプロジェクトを終了することも簡単で、不必要な組織の存続が自己目的化することもなくなると思います。そして、日本の教育の再生のためにやるべきことがなくなれば、さっさっと解散する。そのような覚悟、いや、こんな組織が一日も早く不必要になることこそが日本のためだという認識をしっかりと持っておくべきでしょう。


3.小さな核と多くの協力者の二重構成にする。

 保守運動全体との調和と補完を考えて、さまざまなプロジェクトを起こすとなると、当然、中心者の間には、さまざまな問題について広範な意見の一致が必要となります。しかし、集まる人の数が多くなるほどそれは難しいということは、「つくる会」の内紛史からも明らかです。そこで、団体としての基本的な政策の企画・立案に関わる人々の数は少なくし、他方で、協力者を増やして、個々のプロジェクト毎に参加・協力していただくようにすれば、多くの賛同者を抱えつつ、しかも、それらの人々の間の意見の不一致によって団体が混乱するということはなくなると思います。


4.自前の支部や全国組織はもたず、既存の組織や有志の団体とネットワークを組む。

 既存の保守団体関係者の中には、新団体について、次のような懸念をお持ちの方もいらっしゃるのではないかと思います。
「つくる会と会員の取り合いをして、泥仕合を展開し、またまた他団体に迷惑をかけるのではないか」
「すでに存在している他団体とも会員の取り合いになるのではないか」
 しかし、私は、今度の団体には、支部も全国組織も、そして、いわゆる「会員」も不要だと考えています。
 これから支部を創ったり、それを組織化したりなどといったことは、能率が悪すぎます。それよりも、すでに、保守系の団体は数えきれないほどある訳ですから、それらの団体とネット・ワークを組んで、時にはそれらの団体や個人をつないで効果を高める仲介者になったり、活動を活性化するためのお手伝いをしたり、新たな運動の企画の司令塔になったり、また、時には自らが前線に出て戦ったりと、機動性の高い、小回りの利く組織を目指したいと思います。
 すでに、存在している日本にとって有意義な諸組織のネットワーク化を推進して、それぞれがもっと力を発揮できるように援助するサテライト組織、そんなイメージです。
 だいたい、「会員」といっても、保守系の運動に携わる人々の数はだいたい決まっており、多くの人々が複数の会に属していて、もう「会費」は大変、機関誌を送られても読み切れない、というのが実状でしょう。それに、私たちは、会員サービスに時間や費用や労力をかけるよりも、国を動かす運動に全力を投入したいのです。


5.自らも人を育てる、あるいは人が育つ、成長する団体でありたい。

①.主導者について

 「つくる会」は、これまでにもう何度も指摘してきたことですか、一芸に秀でた創業者の欠点を覆い隠して神格化してしまいました。やはり、そこに内紛や陰謀や隠蔽の体質から抜けられない原因があったように思います。ですから、新団体においては、はじめから、主導者といっても、欠点もあれば失敗もする普通の人間であるという常識に立って、問題や失敗を隠さず、むしろプロジェクトの失敗や挫折を通して、成長していくのだという認識を共有し、多少なりとも、人間修行のような要素を導入すべきではないかと思います。

②.プロの運動家について

 「つくる会」では、事務局長をはじめとした専従者に対して、「たかが使用人」「私たちはボランティア、彼らは金をもらっている」などという言葉に象徴されるように、敬意を払ってきませんでした。ですから、一方で、わがままな理事たちを自由自在に操って戦闘的な運動を展開することを期待しながら、他方では、生活をかけて運動しているにもかかわらず、理事たちに嫌われたらさっさっと辞めなければいけないといったような矛盾した要求をして平気でいられたわけです。

 実は、運動の専従者というの大変なのです。給料は安くないと会員から不満がでます。成果は、自分がやったことでも、偉い先生方がやってくださったことにし、失敗の泥はかぶらなければなりません。時には会員の不満のはけ口も引き受けなければならないこともあります。
 人一倍志が高く、運動に生活をかける覚悟があり、秘密が守れ、裏方を引き受けられるだけの自己抑制力を備えている。それが専従者に求められる資質です。その現実を少しでも知れば、誰も「俺はボランティアなのに、お前は金をもらっている」などとは言えないはずです。むしろ、「私が出来ないことを代ってやっていただいて、ありがとうございます」ということになるはずです。

 ただ、周りの者がどれほど理解したとしても、専従者の立場が不安定なものであることに変わりはありません。高い給料は期待できないでしょうし、団体がいつ解散になるかもわかりません。ですから、中には、志が歪んでしまう人も出てくるわけです。
 そこで、新団体では、彼らを対等のパートナーとして尊重するばかりでなく、この団体がなくなっても自らの力で生活していけるように、プロの運動家としての技量(構想力、統率力、事務能力、人脈、集金力)を高める機会をどんどんと与えていくべきだろうと思います。

③.協力者について

 私は、いわゆる「会員」は不要だといいましたが、「来る者を拒む」つもりはありません。ただ、新団体に参加する人の条件として、「大衆であることを止める覚悟」ということだけはあげたいと思います。
 晩年の清水幾太郎は「大衆」を次のように定義しています。
「大衆とは、第一に、敢えて自らに困難や義務を課そうとしない人たち、第二に、自ら自分を超えて行こうとしない人たち、そういう意味で、現在の自分に満足している人たち、第三に、もし不満がある場合、その原因を先ず自分以外のものに求める人たち、第四に、原始的欲望を制御することを知らない人たち。」(『世紀末に生きる「社交学」ノート』文藝春秋、212頁)

 「つくる会」は、創業者を神格化してきたばかりでなく、会員を甘やかしてきたと私は思います。ただ会費を払っている、少しばかり活動した、というだけの理由で、自らの欲求の実現を会に要求し、不満があると総会やネットで大騒ぎし、自らは「戦後の大衆性」にどっぷりとつかりながら、そのことに気づきもしない会員に、反省をもとめることが余りに少なかったと思っています。

 もちろん、「つくる会」会員が、そんな人ばかりだったと決めつけるつもりは毛頭ありません。黙って自己犠牲を払ってきた人々が多いことは承知しています。しかし、やはり、誰かに頼り、お願いして、それで良きことをなそういう依頼心が強かったことは否定できないでしょう。ですから、自分が頼った人が誤った場合には、厳しく糺して、正しい道にもどすことができなかったのだと思います。

 ですから、新団体に参画しようとする人には、主導者と憂いをともにする人であってほしいと思います。何かをやってほしいとお願いするのではなく、自らがこれをやりたいというアイデアや企画、これをやるんだという覚悟を持つ、できれば、そのために一国一城の主となって、その夢や企画や事業を実現するために新団体と提携する。そういう人であってほしいと思います。

 もしも、気持ちだけはあるのだが・・・という人がいたら、そういう人には黙って資金援助をしていただきたいと思います。サービスといたしませんが、成果は確実にあげ、それについては、お知らせしたいと思います。

④.後継者について

 保守運動に限らず、後継者の育成は、どこの組織においても大切な課題でしょう。ただ、若い人を大切にしようとする余り、まだ自らの言葉を持てず、小器用に著名人の思想や言葉をつなぎ合わせているだけの若者がチヤホヤされて、そのために、未だ自らの力では何も達成していないのに、もうすでに何事か有意義なことを実現したかのように勘違いして、思い上がり、最前線で戦っている人々を批評し、中傷するといったことが、「つくる会」騒動の副産物として起こりました。

 私にしても、八木氏にしても、そうなのですが、誰にも理解してもらえず、時にはかつての仲間からも批判の目をむけられる、自らの方向性にも能力にも確信が持てない不安の中で、それでも志を捨てないように、裏切らないように努力した、そんな孤独な修行時代がありました。ただ、それに耐えられたのは、何人かの暖かく見守ってくださった先生方がおられたからです。その先生方の恩を、今度は次の世代を育むことで、私たちがお返しする巡り合わせになってきたように思います。胸中に志を秘めて、地道に努力している若者を見出し、鍛え、お国のために働けるように援助することも、新団体の大切な機能だと思います。


6.「命もいらず、名もいらず」ではなく、正しいこと、意義深いことと、楽しいこと、ワクワクすることとの融合、調和を目指したい。

 大学時代に、ある年長者が三島由紀夫の自決の時の心境を語ってくれたことがありました。「自分は、それまで、国のために死ぬなんてことを軽々しく口にしていたが、三島さんの事件を知って、俺には日本のために命を懸ける覚悟なんてないことがよく分かった。でも、そんな自分でも何かできることはないかと考えたら、国のために一生を懸けることならできそうに思えた。」

 ちょうどその頃、『西郷南洲遺訓』を読んでいて、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という一節の重みに耐えかねていた私にとって、その言葉は救いになりました。もちろん、名誉や地位や金を手に入れたいとの下心を美しい言葉で飾って人々を欺くのは論外ですが、とかく、保守的な人々の中には、不必要に、名誉や地位や金を毛嫌いする傾向があることも否定できません。
 何よりも大切なことは国のために何事かをなすということで、そのために名誉や地位や金が邪魔ならば退け、必要ならば手に入れる、そういう執着なしの自由自在が必要だと思います。そして、究極においては、公に向かうことを覚悟しつつ、出来うる限り、個人としての自己実現(夢や希望や楽しさや富や地位)との両立の道を探っていきたいと思っています。
 そんな私が考えている新団体のイメージは、戦うイベント会社、運動するベンチャー企業、保守運動を活性化する仲介業者、様々な教育団体をネットワーク化する企画会社といった感じです。


7.「一揆」の伝統を復活したい。

 私はかつて拙著でこんなことを書きました。
「一揆とは、今日では農民反乱のように思われているが、本来はそのような限定された現象ではない。中世に盛んだった一揆とは、身分に関係なく、通常の手段では解決不可能な課題に対処するため、各人が従来のしがらみを超越して新たな共同体を創出することが必要になった場合に、結ばれたものだった。
 例えば、頼朝死後の鎌倉幕府において、評定会議が設置されたが、その際に、この会議を個々の構成員の私的利害(「縁」)を超越した公権力の執行機関とするために、ただ「道理」に従い、「一同」「一味」(一味同心)する(共同責任を負う)という「神仏への誓約書である起請文」が結ばれた。勝俣[鎮夫]はここに「一揆」の伝統の起点を見ている。

 この一揆の特徴を列挙すれば、合議による意志決定と共同責任、さらには、「一味神水」と言われる神仏への誓約と構成員間の平等性などである。この一揆は「日本の歴史の基層に生き続けた集団心性」だったと勝俣は言っている。
 一揆の要点をもっと普遍化して、「非常時に対処するために、神聖なものの下で、あるいは神聖なものを中心として、合議制や平等性を重要な要素として共同体を創出すること」と言い換えるならば、それは何も中世に限らない。律令国家の起点となった大化改新にあたっては、群臣を大槻の木の下に集めて盟約を結び、天神地祇に誓わせているし、さらに、神話にまで遡れば、岩戸隠れした天照大神に再び御出現いただく方法を神々が天の安の河原で話し合い、共同で祭祀を執行している。

 とすれば、明治維新とは、時間的には神話の時代から近世までの、階層的には朝廷から庶民にいたるまでの、まさに日本人全体の集団心性の基層に存在する一揆の伝統を、近代の要請に応じて蘇らせて国民国家を創出した壮大な復活劇だったと言えるのではあるまいか。「祭政一致」の宣言、それを象徴する儀式として改革の断行を諸大名を率いて天皇が神々に誓った「五箇条の御誓文」の誓祭式、四民平等と国民皆兵の政策、中央・地方での議会の設置など、すべて「一味神水」「一味同心」の文脈で整合的に理解することができる。」(拙著『「現人神」「国家神道」という幻想』PHP研究所、257ー258頁)

 私は日本という国は、歴史通じて、聖なるものを中心とする人間集団という特色が保持され、それによって国家としての健康が保たれてきたと思っています。その平常時の現れが、皇室祭祀を中心とした多様な祭祀群であり、非常時の現れが「一揆」だったのではないかと考えます。ですから、どこかで、「一揆」の伝統を維持したり、復活したりいることが必要ではないかと思っていたところ、新団体の事務所開きに当って、祭祀が行われ、八木氏が「五カ条の御誓文」を朗読したと聞きました。これは全く、私との打ち合わせなしに決まったことですが、それだけに、いっそう、私たちには深いところで問題意識が共有しているのだなと思ったわけです。
 また、改めて読んでみて、これから自分たちがやりたいと思っていることが、この五カ条に言い尽くされていることにも驚きました。

一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。

二、上下心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。

三、官武一途庶民に至る迄、各々其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す。

四、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

五、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。


8.悪しき伝統は改めたい。

 「五カ条の御誓文」の第四条に「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」とあります。これまでの私たちは、不当な自虐史観の払拭に全力を注がなければならなかったために、我が国の伝統に含まれている負の遺産については、その指摘や清算に手が回らないという状況にありました。しかし、「つくる会」騒動を経験してみて、伝統的な価値観と戦後の価値観とが妙な科学反応をおこして融合し、おかしな状況を生み出しているのではないかと思うようになりました。そこで、日本の文化や歴史や伝統を静かに、大らかに肯定しつつ、個別の欠点については、改める努力を始めるべきではないかと思っています。


おわりに

 誤解していただきたくないのですが、本日私が書き連ねた組織的な反省や対策は、私がこのブログを書き続ける中で得た、個人的な見解で、決して新団体の正式決定ではありません。吸い上げてもらえる部分もあるでしょうし、取り上げてもらえない提案もあるでしょう。それに、今日申し上げたことは「組織論」に限られていますので、具体的な運動目標や政策については、まったく新団体の公式発表を待っていただかなければなりません。

 ともあれ、今日までお付き合い下さった皆様には厚く感謝し、お礼を申し上げたいと思います。

 「もう一つの『つくる会』顛末記」は今日でお仕舞いです。ただ、これからも、必要に応じて、お知らせなどを掲示することがあるかも知れません。

 今後、このブログは、「つくる会」騒動を伝える資料として残すつもりですが、コメントの書き込みについては、今月28日(水)をもって終了にしたいと思います。

それでは皆様、本当にありがとうございました。

平成18年6月25日

新 田  均
もう一つの「つくる会」顛末記(最終章2)ー進歩主義の論理は超えられるかー
「歴史を解釈するときに、まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方は、あやまりである。歴史を、ある先験的な原理の図式的な展開として、論理の操作によってひろげてゆくことはできない。このような「上からの演繹」は、かならずまちがった結論へと導く。事実につきあたるとそれを歪めてしまう。事実をこの図式に合致したものとして理解すべく、都合のいいもののみをとりあげて都合のわるいものは棄てる。そして、「かくあるはずである。故に、かくある。もしそうでない事実があるなら、それは非科学的であるから、事実の方がまちがっている」という。
 「上からの演繹」は、歴史をその根本の発生原因と想定されるものにしたがって体制化すべく、さまざまの論理を縦横に駆使する。そして、かくして成立した歴史像をその論理の権威の故に正しい、とする。しかし、そこに用いられている論理は、多くの場合にははなはだ杜撰なものである」(竹山道雄『昭和の精神史』講談社学術文庫、13-14頁)。

「「上からの演繹」がいかに現実とくいちがい、しかもなお自分の現実理解の方式をたて通そうとして、ついにはグロテスクな幻想のごときものを固執するようになるかー。それの例をわれわれはいくらも身近に感じることができる。」(同書、33頁)

「人間は外界によって直接にうごかされるのではなく、外界について彼がいだいているイメージによってうごかされるのだから、かくて成立した世界把握が大きな力となって社会をうごかす。それは科学に名をかりながら、むかしの魔術を思わせる。
 もともと魔術の本質は、ある特定の世界像をあたえて、それにしたがった行動をさせることだった。いま論理はまさにこれと同じ役目をしている。そしてインテリほど論理にたよって判断するから、インテリほど魔術にかかっている」(同書、35頁)


 かつて「日本ファイズム論」という幻想が一世を風靡していた時代がありました。上記の文章は、その時代に、竹山道雄氏が「進歩主義の論理」(=「上からの演繹」)の「まやかし」を見破るという観点から、その論理に根本的な批判を加えた論文の一節です。

 私の専門は近代日本の政教関係の研究ですが、竹山氏の教えに導かれて、「日本ファシズム論」の亜流である「国家神道論」という幻想を、吟味・批判してきました。それを行うに当たって、竹山論文から学んだ方法論というのは次のようなものです。

「歴史を解明するためには、先取りされた立場にしたがって予定の体制を組み立ててゆくのではなくて、まずいちいちの具体的な事実をとりあげてそれの様相を吟味するのでなくてはなるまい。前提された発生原因から事実へと下るのではなく、むしろあべこべに個々の事実から発生因へと遡るのでなくてはなるまい。固定した公理によって現象が規定されるのではなく、現象によって公理の当否が検証されなくてはなるまい。外から形をわりつけるのではなくて、その事自体についてその事がもつ形を見きわめるのでなくてはなるまい。考究の出発点は、うたがうことのできない現象が直接に語る意味を解読することからはじめなくてはなるまい。」(同書、38頁)

 一言で言えば、私が研究上やってきたことは、「事実に依拠した、仮説の公理化への異議申し立て」だったわけです(私の専門研究の方に興味がおありの方は、拙著『「現人神」「国家神道」という幻想』PHP研究所、をご覧下さい)。

 ここまで書けば、もう賢明な読者には、私が何を言おうとしているかがお分かりになったことだろうと思います。そうです。「つくる会」騒動を語るにあたって、西尾氏や藤岡氏が「進歩主義の論理」「上からの演繹」を用いたのに対して(曰く「コンピューター問題」「生長の家グループの介入」「近代保守コントラ神社右翼・宗教右翼」「会長によるクーデター」「中共対日工作の窓口」「怪メール問題」)、私はこのブログで竹山氏の方法論を用いて対抗してきたのです。


 ところで、「近代保守」たる西尾氏も藤岡氏も、「自虐史観」「日本ファシズム」「侵略戦争」「南京大虐殺」「従軍慰安婦」などといった「上からの演繹」には反対していたはずです。ところが、「つくる会」騒動に関しては、まったく「進歩主義の論理」に逆戻りしてしまいました。私は、ここに、「近代保守」、すなわち「戦後保守」が清算できていない戦後教育の残滓、その深い爪痕を見る思いがします。

 自分の日常生活から遠い「大きな物語」については、「進歩主義の論理」を乗り越え、それですっかり戦後教育を克服できたつもりでいたのに、自らの利害や面子、権力や立場が直接的に関係してくる日常的な場面では、未だに「進歩主義の論理」にどっぷりと浸かったままであることが露見してしまったのです。

 「つくる会」の運動が爆発的な力を発揮できた背景には、創業者がもっていた巨大なエネルギーがありました。けれども、最後まで残った人々を見ると、それはエネルギーはエネルギーでも負のエネルギー、否定や反発、さらにその底には、個人的な不遇感や劣等感、歪んだ上昇志向などがあったように思います。そして、どうやら、そのような負のエネルギーと「進歩主義の論理」とは親和性があって、内攻して自己崩壊をもたらす危険性を孕んでおり、知らない内に、自分が否定したはずのものに、身近なところでは、そっと忍び寄られ、すっかりからめ取られてしまっていた、ということだったのだと思います。

 ここから得られる教訓は、“自分の身の回りの「小さな物語」についても「進歩主義の論理」を克服する努力をはじめなければならない”“他人に向かって「上からの演繹」の否定を求めるのと同様に、自分の利害・嫉妬・羨望・欲求・劣等感・不遇感・憎しみ・怒り・人間関係などが絡まる世界で、内なる戦後、内なる進歩主義史観の超克を目指さなければならない”“負のエネルギーを、静かな誇り、感謝、愛といった正のエネルギーに置き換える”ということだと思います。

 西尾氏は、私たちが書いた文書の中に、執行部のやっていることはまるで「東京裁判の問題点と同じ性質です」「まるで南京大虐殺を左翼がでっちあげて日本軍国主義批判を展開することを想起させます」とあったの捉えて、「見当はずれの、全共闘学生と変わらぬ、おどろおどろしい言葉」だと言い、「いったいこれが保守の仲間に向ける言葉でしょうか。私がもう共に席を同じくしたくないと思ったのはこのような言葉の暴力に対し無感覚な、新しい理事の出現です」と書きました。

 西尾氏が、私たちの言葉に「暴力」を感じとり、これほどまでに怒り、恐れ、慌てふためいたのは何故か。それこそ、「近代保守」を自称する彼の本質的な欠陥を言い当ててしまっていたからだと、今になって思います。私の本質的な弱点を「見たな!」というわけです。

 ですから、西尾氏が、その内的欠陥を克服する道を選ばないならば、表面的な対立を言い立てて、私たちを排除することでごまかすより仕方がなかったのでしょう。

もう一つの「つくる会」顛末記(最終章1)ー内ゲバの論理はこえられるかー
1.高橋和己の思想

「革命を遂行する過程で、圧倒的な敵の包囲の中で不可避的にとられる秘密結社組織や陰謀性も、次の段階では自己否定して組織や指針を公開化し、さらには党派自体を解体してゆくべきであるということも、思念自体としては、否定する人はあまり多くない。しかし、これまでの革命史の現実は遺憾ながらそうではなく、今後も、真にそうありうると思っている人はおそらくはなく、また革命運動それ自体のなかにそうした自己否定、少なくとも自己相対化の要素を導入しようとしている集団はほんどない。」(高橋和己「内ゲバの論理はこえられるか」『わが解体』河出文庫、174頁)

「苦しい変革過程の運動形態のなかに孕まれていなかったいかなるものも、権力奪取後に不意に姿をあらわすことはない。権力奪取後に、自由が制限されるなら、それは運動形態自体のなかにすでに自由はなかったのである。」(同書、215頁)

「現権力者は、あらん限りの悪を、合法性の名のもとに敢えてしている。フェアプレイだけをやっていては、実際の活動は出来ないし、道徳的人気だけでは、権力をくつがえすことはできない。にもかかわらず、未来を担う階級は、やはり、現体制の維持者以上の道徳性をもっていなければならない。/革命を、単なる易姓革命、王朝交替におわらせないために、ある場合には自らを呪縛するように働く、新しい道徳性を、運動の過程それ自体のなかで築いていっていなくてはならないのである。」(同書、216頁)

 上記の文章は、私が学生時代に読んで、赤鉛筆で線を引いていた部分です。私が理想や運動や組織というものを考える時には、常に、高橋和己のこの言葉が一つの基準となっていたように思います。

 西尾幹二氏は、私のことを「全共闘的」と評しました。それは私の理事会における発言を指してのもので、その発言自体が存在しないのですから、その意味ではお門違いです。しかし、私の思想的・行動的あり方の本質的な部分に、高橋和己の影響を感じとっていたのだとしたら、やはり、評論家として天才的な嗅覚をお持ちなのだと認めざるを得ません。

「自らを呪縛するように働く、新しい道徳性を、運動の過程それ自体のなかで築いていかなくてはらない」との思想は、「両刃の剣」です。敵だけを切り捨て、自分には何の危険も与えない「刀」ではありません。その思想が導入されることの危険性をいち早く察知し、恐れ、怒り、あわてふためいた。これが、西尾氏を深層で駆り立てた情念だったように思います。

 創業者の考え一つで昨日までの同志に突然切りつけ、言うことを聞かなければ冤罪をでっち上げて罵倒し、追放する。使用人の分際で主人に逆らうなどとはとんでもない。こうした思考は、「自分達はサヨク以上の道義性をもっていなければならない」と考える私にとって、小さな問題どころか、運動や組織の根幹に関わる問題で、とても受け入れられるものではありませんでした。

 しかし、そうやって、一段高い倫理性を会に求め、内ゲバの論理をこえようとしたことが、かえって、内紛を激化させてしまったという面も否定できません。このことは、どう総括したらいいのでしょうか。


2.士(サムライ)の思想

「『葉隠』にあっては、まず「個」としての武士の完成が要求された。それは「御家を一人して荷ひ申す志」というものを、常に胸のうちに蔵しているような能動的で、自我意識の強烈な「個」としての武士である。そして主君に対する忠誠の問題は、このように完成された「個」としての武士の、主体的で能動的な自己滅却として捉えられていたのである。

 さればこそ、主命への事なかれ主義的な恭順ということは『葉隠』の最も嫌悪するところであった。「事によりては主君の仰付をも、諸人の愛相をも尽くして」、おのれが信ずるままに打ち破って行動せねばならないこともある。畢竟は主君、御家のためを思う心さえ堅固であるならば紛れはないものとする。

 あるいはまた、自己の名誉を侵す者は、たとえ相手が主君であっても、その不当を強く申し立てるべきであるとも主張する。自己の働きに対する評価や行賞が、言われなく過小であると判断したならば、「一入勇み進み候」て、異議を申し立ててこそ鍋島家代々の侍というものだとする。しかるに不当の待遇を受けながら、「面目なき次第」などと頭をかいているような気概のない者では、将来とも役に立つ見込みは望めないのである。

 自己主張の激しい彼らは扱いに面倒で手の焼ける厄介な存在ではあるが、ひとたび主家が困難に直面し、存亡の危機に陥ったときにも、けっしてひるむことなく、保身に走ってその場を逃げ出すということなく、己一人にても御家の危難を救うべく、全身全霊を尽くして困難に立ち向かっていく者たちなのである。「曲者は頼もしき者、頼もしき者は曲者」と述べる所以であり、御家にとって真に役に立つのは、このような者たちであるとされる。」(笠谷和比古『士(サムライ)の思想』岩波書店、85-86頁)

 これは昨年12月15日の八木会長声明が出た頃に、私が八木氏や宮崎氏にファックスした文書です。
 私も「くつる会」がもっと戦える組織になることを望んでいましたが、それは、西尾氏や藤岡氏が考えていたような、上意下達を徹底させて、名誉会長や副会長の意のままに動く組織にし、指示待ち人間を増やす、ということではありませんでした。むしろ、それぞれの理事や事務局員や会員が、自らの見識と誇りにかけて、自己責任で戦う強固な「個」となることを目指す。その強固な「個」の集合体であってはじめて会は戦闘集団たりえる、そう私は考えていました。

 しかし、八木氏や宮崎氏を励まし、ともに戦ってみて分ったことは、私たちが素朴に信頼していた言論人や会員に、実に深く、戦後の「平和思想」「非戦論」が浸透している、ということでした。「言っていることは分かるが、争うのはよくない」「戦えばどっちもどっち、泥仕合だ」「とにかく仲良く」。
 戦後体制の中で、戦いの意味を奪われ、それゆえに、戦いの中で正邪の区別を見極める体験を積むこともなく、ただ「和を以て尊してなす」ことだけを教えられ、それが魂の底にまで染み着いてしまっている。これでは、百戦錬磨の外国と対等にやり合えるわけがありません。
 明治の指導者たちは、外国とやり合う前に、厳しい藩内闘争を勝ち抜いた人々でした。その経験があったから、腹も据わり、外交も上手だったのだろう、とつくづく思います。だから、私たちが戦える組織を目指すなら、内部闘争の肯定的な面をもっと認識すべきでしょう。

 しかし、そうなると、これまた、内紛の連続となることが懸念されます。そうならないためには、どうしたらいいのでしょうか。
 強い自負心と誇りとをもった強固な「個」としての「曲者」。一人でも戦えるだけの覚悟を備えた「士(サムライ)」。その思想を甦えらせつつ、他方で、醜い内紛を防ぐためには、どのようすればいいのでしょうか。


3.天照大神の神格に学ぶ

 「つくる会」は、一芸に秀でた創業者を、あたかもすぐれた日本人の代表のように演出することで、多くの人々の期待を集めて来ました。それで成功したわけですが、やがて、創業者の驕りと、一部の会員による創業者の神格化がはじまり、ついに軌道修正することができませんでした。ここに「つくる会」の悲劇の一つがあったと私は見ています。

 ですから、私たちは、一人一人が誇り高い士(サムライ)となることを目指す一方で、決して、自分が万能ではなく、限られた視野しか持たず、判断を誤る可能性をもっていることを十分意識して、謙虚な心を忘れず、不断に研鑽に努め、神格化されることがないように心がけなければならないと思います。

 これは考えてみれば、日本人にとっては当たり前のことです。なにしろ、最高神の天照大神自身が、最初から完成された神格ではなく、さまざまな失敗体験を経て、徐々に神格を磨かられていった方だったのですから。

 高天原を治めはじめた頃の天照大神は、お別れを言うために高天原に登ってきた弟のスサノオノ尊の心さえ正確に理解できませんでした。そのために、初めは武装して待ち受け、次にスサノオノ尊の心を確かめるために占いをし、占いの結果が出てからはスサノオノ尊の大暴れを抑えることができず、ついに、天岩屋に引きこもってしまいました。
 高天原には、個々の能力においては天照大神をも凌駕する神々がおられましたが、光を与える中心者がいなくなってしまうと困り果て、天照大神に出てきていただくために、天岩屋の前で祭りを行うことにしました。この祭祀によって、天岩屋から引き出された天照大神は、高天原の中心者に相応しい神格へと進化を遂げられたのでした。

ここで再び葦津珍彦氏の文章引用します。
「天照大御神の神話は、全知全能には遠い感じである。弟の「すさのをの命」の意思を誤り解せられたといふやうな話も出て来る。高天ヶ原の神話では、ただ「知」といふことでは「思兼の神」とか、「力」といふ点では「手力男の命」とか、おそらく大御神以上の能力者もあるのではないか。前に大御神が御自ら祭りをされたといったが、おそらく海山、風水を治めたりするには、大御神以上にも能力のある神々があったのではあるまいか。」(『天皇ー昭和から平成へ』143頁)

「天照大御神は、ただ独りの全知全能にして無謬の神ではなかった。高天ヶ原に於ても、御自らよりも、より有能(あるいはよりすぐれた)神を祭り給ひ、多くの有能有力なる神々の存在を認めて、その神々の能力をより高からしめることにつとめられた。」(同書、145頁)

 高天原では、様々な能力を有する神々が、その神々を適所に配置し、その能力をいっそう高めようと努めておられる天照大神を中心として、互いの能力を認め会い、尊敬しあって暮らしておられる。我々の先祖が、そのような世界を理想としたのであれば、私たちもまた、個人として、組織として、どこまでそのような世界をこの地上で実現することができるのか。そのような問題意識で生きた時、内ゲバの論理はこえられるのではないか。私はそう思っています。

もう一つの「つくる会」顛末記(7)―呪術的逃走―
「およそこの地上で、人間によって構造されたものは、王朝であれ政治権力であれ、あるいは宗教教会であれ、大いなる権威を有するものの歴史には、一つの宿命的法則がある。それらは、初めにおいては、それぞれの理想をもち、それ故にこそ権威を高めたのであるが、社会的権威と権勢とが高まれば、時とともに、必ずやそこに罪とけがれが集中して汚染され、やがて汚染が進めば、当初の権威の源となった存在の意義も失って滅亡して行く。その汚染をいかにして浄めて行くかが一大問題である」(葦津珍彦『天皇ー昭和から平成へ』神社新報社、36頁)

「外国の王朝にも、政治権力者にも、偉大なる思想はあった。特にシナ大陸の文明的王朝などには、私のあこがれるやうな歴史も少なくない。しかしそれは、その建国の思想が頽廃して行くと、復元するバイタリティがなくて亡び去ってしまった。それは人間の優劣の差ではなくして、その初めの理想を守り、頽廃すればそれを克服し復活しようとする祈り(大祓ひ)、祭りの優劣の差だったのだと思ってゐる。」(同書、35頁)

 以上の文章は、戦後長らく神社界の理論的指導者だった故葦津珍彦氏の言葉です。「つくる会」騒動の最中、私は頭のどこかでこの言葉を意識していたように思います。
 私も「神社右翼」のはしくれとして、祈りに導かれた行動によって、なんとかしたいともがきつつ、しかし、「つくる会」の組織自体に「祭り」の浄化機能が組み込まれておらず、しかも、汚染の堆積がことのほか進んでしまっている状況では、個人的な努力にも限界がありました。

 「神様でもどうしようもないケガレもある」ということは、日本の神話でも語られています。『古事記』に登場する黄泉の国です。火の神を生んだことによって死んでしまったイザナミノ神を追いかけて、黄泉の国に行ったイザナギノ神は「私とお前が作った国は、まだ完成していない。だから、帰って来て欲しい」と呼びかけました。しかし、闇の中で光を灯してしまったことで、醜いイザナミノ神の正体を見てしまい、恐れて逃げ出してしまいます。

 ある時、光をともしたら、本当の姿が見えてしまった。もう一緒には居られない。出ていくしかなかった、というわけです。

 すると、イザナミノ神は「よくも私に恥をかかせたわね」と怒り、黄泉の国の醜女にあとを追いかけさせました。イザナギノ神は身に付けていたものを次々と投げすてて、逃げていきます。

 臨床心理学では、これを称して「呪術的逃走」と呼ぶ、とどこかで聞いた記憶があります。「ダメだ、危ない」と分かったら、何とかしたいとか、守りたいとか、続けたいなどという執着は捨てて、「さっさと逃げ出すしか、生き延びる術はない」ということらしいのです。

 投げ捨てた装飾品が葡萄や竹の子に変わって、醜女がそれを食べている間に、イザナギノ神はどんどん逃げて行きます。

 私たちが辞めた時点で「つくる会」には1億円近い資金がありました。その内の3000万円強は、八木さんと宮崎さん、二人の運動姿勢に共鳴した方たちが次の運動のためにと寄付して下さったお金で、全く手つかずのままでした。ですから、二人が会の運動をつづけられないと分った時点で、「出資者にお返しするのが筋ではないか」という議論も出ました。しかし、そんなことをすれば「会員の浄財を持ち出した」などと逆宣伝されることは目に見えていました。「こんなことで先生たちに泥をかぶせるわけにはいきません」という出資者の方々のあたたかいお言葉もあり、そのままにして会を出てきました。

 醜女の追跡を振り切って黄泉ひら坂にたどり着いたイザナギノ神は、大きな岩で坂を塞ぎ、追いかけてきたイザナミノ神と問答します。イザナミノ神が「あなたの国の人間を一日に千人殺しましょう」と言うと、イザナギノ神は「それなら私は千五百人生みましょう」と答えるのでした。

 この後、イザナギノ神は、身体に残ったケガレを祓うために筑紫の日向の橘の小門のあわぎ原で禊ぎをされました。すると、マガツヒノ神という禍をもたらす神が生まれたり、ナオビノ神という禍を取り除く力をもった神が生まれたりと、次々に神々が誕生していくのですが、最終的には、天照大神の誕生へとつなかっていくわけです。

 このブログを書き始めてから今日までの日々を振り返ってみますと、なんとか黄泉ひら坂を岩で封印しようとする試みから始めて、イザナミノ神の呪いの言葉を跳ね返し、残ったケガレを祓うために禊ぎを続けてきた、そんな過程のように感じられます。
 書き続ける過程で、さまざまな問題点が見えてきました。それと同時に、いろいろな課題やアイデアも浮かんできました。そして、新たな希望の光をはなつ新団体の誕生が具体的日程にのぼってきたのです。

もう一つの「つくる会」顛末記・資料編(19)ー西尾幹二氏の言説の変遷ー
【解説】

 ここ最近の資料編は、藤岡氏の言説に焦点を当ててきました。その印象が強烈なために、藤岡氏が「つくる会」騒動の第一原因者のように見えてしまったかもしれませんが、私は、西尾幹二氏こそ、最大の火付け役であり、扇動者だったと考えています。なにしろ、西尾氏の大騒ぎがなければ、昨年12月15日の段階で「コンピューター問題」や「事務局長人事問題」に決着がつき、もしかしたら、藤岡氏の本質がこれほど世間に露出することもなく、様々な困難な条件がそろっていたとはいえ、なんとか八木氏のリーダーシップで会がまとまっていくことができたかもしれないのです。

 ところで、文筆に携わる者は、最低限の倫理として、言葉と心や事実との一致に努めるべきだというのが私の考えです。ところが、西尾幹二氏は、そのような倫理観とは無縁の方でした。むしろ、それを意図的に無視することで、かえって大きな影響力を保ち続けてこられたのではないか、とさえ考えられます。

 むかし、早稲田大学で、ある教授がマルクス経済学を批判して、「マルクスの矛盾が露呈しなかった理由の一つは、『資本論』が長すぎることにある。誰も前の主張を覚えていないから、後で矛盾したことを書いても気付かれなかったのだ」と言っていたのを思い出します。
 西尾氏の巧みなレトリックに、あちこち引き回されている内に、具体的な物言いは忘れさせられて、西尾氏が読者に与えたいと思っている印象や先入観だけが心に残る。その言葉使いは、確かに天才的です。しかし、他方で、これほど言葉を貶め、蝕み、虐げ、弄ぶ書き手もまた希なのではないでしょうか。

 資料編の最後として、この点を明らかにする資料として、西尾氏の言説の変遷をテーマ別にまとめてみました。後の資料は、状況に応じて、必要ならば出す、ということにします。


●(資料1)西尾氏が名誉会長を辞めた理由

 4月19日の西尾ブログ「怪メール事件(四)」で「私が1月の理事会の翌日の17日に名誉会長の称号を返上し、会を離れる声明を出したのは、『つくる会』を見捨てたからではなく、会の外部に出て誰に遠慮もせずに内部の恥部を暴き、病巣を剔り出し、背後にうごめく他の組織の暗部に光を当てようと決心したからであった」と西尾氏は語っています。
 これが彼の最も素直な真情の告白であろうと私は考えています。そこにどのような戦術が隠されていたかについては、もう何度も書いてきたのでここでは繰り返しません。

●(資料2)辞めた後の「つくる会」との関係

「いかなる意味でも私は「つくる会」に今後関係を持たないこと、影響力を行使しないことを宣言します」という自分の言葉を、西尾氏が自らの行動で裏切り続けたことを証す記録です。

●(資料3)藤岡信勝氏について

●(資料4)八木秀次氏について

●(資料5)種子島氏経氏について

●(資料6)藤岡信勝氏の「平成13年共産党離党問題」

●(資料7)四理事について

●(資料8)「つくる会」騒動の原因

 最後の資料のポイントは二つです。

 一つは、4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」 で、西尾氏が次のように書いていることです。
《「四人組」は私に言わせれば「つくる会」の一角に取り憑いたガン細胞のようなものであって、放って置けばどんどん増殖するだろう。新しい理事として昔の組織の仲間を多数入れて、やがて八木氏も追い払ってしまうかもしれない。思い切って切除し、今のうちに強権で排除するか、それができなければ会そのものをスクラップにするしか、増殖を阻む手はない。Scrap and build againである。
 私はこの会に「宥和」の政策はもはやあり得ないと考えている。八木氏の代わりに強力な指導者が立って、強権発動して「四人組」を排除してしまう以外に会が救われる道はなく、そのためには現状では同じ方針を公言していた藤岡信勝氏に会長になってもらうのが一番いいと思った。それ以外に方策はないだろう。1月後半から2月にかけて、私だけでは決してなく良識派は他に選択肢はないと認識し、おおむねそういう判断だったといってよい。丁度正論大賞の受賞もきまり、藤岡氏には追い風だった。何で氏が阻まれる理由があろう。》

 つまり、「1月後半から2月にかけて」、西尾氏は、私達四人を「『つくる会』の一角に憑いたガン細胞と断定し、私達を強制的に排除するか、または、会そのものをスクラップにしようと決意していたということです。そして、そのために「八木降ろし」「藤岡擁立」を画策したわけです。ここに「つくる会」騒動の真の原因が西尾氏自身の口によって語られているのです。

 もう一つのポイントは、西尾氏をそのような行動に駆り立てた、彼の思い込みが、やはり思い込みに過ぎなかったことが、これまた西尾氏自身の口で語られているということです。

 4月19日の「怪メール事件(四)」の補記(4月21日)で、西尾氏は「保守思想界にいま二筋の対立する思想の流れがあり、私は早い時期からそれが『近代保守』コントラ『神社右翼』の対立であると公言もし、書きもしてきたが、裏づけがとれなかった」「これにより今回の騒動の背景の事情が、ようやくくっきりと浮かび上った。「左」と「右」の対立軸だけで考えて来た戦後思想界に曲り角が来たことを物語る。保守系オピニオン誌も新しい二軸の対立をあらためて意識し、選択する必要が生じ、無差別な野合は許されなくなったというべきだろう」と書きました。
 日本会議や日本政策センター、そして私たちを「神社右翼」と呼び、「つくる会」騒動の背景、原因だとしたこの図式の結論は次のようなものでした。

 「『つくる会』の出来事を振り返って全体を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれませんが、なにか外からの力が働いたという印象は私だけでなく多くの人が抱いているでしょう。一つには旧「生長の家」系の圧力の介入があった、という推論を先に述べたわけですが、それは今までの仲間との癒着の油断であって、分り易いので目立っただけで、本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません。」(6月13日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (七)の1」)

 「本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません」?! これを「ペテン師の文章」と言う以外にどう評したらいいのか、私には他の言葉が見つかりません。

   ☆    ☆    ☆

●(資料1)西尾氏が名誉会長を辞めた理由


平成18年1月17日(執行部メーリングリスト)

八木、藤岡、工藤、遠藤、福田各先生へ
退会の挨拶文案を以下のとうりにさせていただければ幸いです。
 前略
 私は「新しい歴史教科書をつくる会」の創設に携わり、平成13年10月まで同会の会長、さらにその後も名誉会長の名で今日まで9年余り会の維持と発展のために微力を尽くして参りました。昨年私は古希を迎え、 同会の新しい指導体制も確立した潮時でもあるので、このたび名誉会長の称号を返上して、名実ともに完全に同会から離れ、書斎にもどることといたし度、同会幹部の合意をいただきました。
 もとより私の思想活動に変更はなく、著作面でもやらねばならぬことが山積している事情を顧みての措置です。
 今後も関係各位へはひきつずき会へのご理解とご支援を賜るよう、切にお願い
申し上げます。               敬具
                    西尾幹二

     ────────────────

1月18日

「若い世人と言葉が通じなくなってきて、むなしい。これからは自分の著作に専念したいと」(読売新聞)

「若い世代とは話が合わなくなった。個人の著作に専念したい」(毎日新聞)

「会の新しい指導体制が確立したため書斎に戻ることにした。教科書の執筆者は、要請されれば続ける」(産経新聞)

     ────────────────

3月23日(『週刊新潮』)

「私の書いた[歴史教科書の]部分を岡崎久彦氏が変えてしまったのですが、岡崎氏は“自分が手を入れたことで誰に見せても恥ずかしくない内容になった”と雑誌で自慢しているんです。それを釈明も謝罪もしない執筆代表者の藤岡信勝氏に腹が立ってしようがなかったのです」
「決定的だっのは1月の理事会でした。4人の理事の一人は私に対して、何の資格で出席しているのかと無礼なことを言う。もうバカバカしくなったんですよ」

     ────────────────

4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」

 私が1月の理事会の翌日の17日に名誉会長の称号を返上し、会を離れる声明を出したのは、「つくる会」を見捨てたからではなく、会の外部に出て誰に遠慮もせずに内部の恥部を暴き、病巣を剔り出し、背後にうごめく他の組織の暗部に光を当てようと決心したからであった。

     ────────────────

5月25日「私が『新しい歴史教科書をつくる会』を去った理由」(『サピオ』6月14日号)

理由の一つは、旧版『新しい歴史教科書』(西尾幹二氏が代表執筆者)の重要部分が、改訂版では私に何の断りもなく岡崎久彦氏(改訂版・監修者)の手で大幅に改筆され、親米的な内容にされたこと。(中略)改訂版のみが会を代表する教科書になった以上、私は会を辞める以外に責任のとりようがない。
(中略)

[4理事の]問答無用の団体的思考や、下から突き上げる一方的口調は、かつての全共闘学生と変わらない。私も1月16日の理事会で彼らの攻撃を受け、その言葉の暴力に腹を据えかねたがゆえに、「つくる会」を辞めたのである。

     ────────────────

6月12日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (六)の5」

 責任をとって理事が辞任するのは簡単ですが、辞任すれば会がなくなってしまうので、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤、西尾の六人で100万円を罰金として会に支払い、謝罪の意志を表明することとし、宮崎事務局長は次長降格、給与10%3か月分カット、調査中なので当分の間出勤停止という裁定を会は自らに下したのでした。公明さを示すためにこの裁定を「つくる会」支部にも公表すべき、と言ったのは、八木氏と西尾であり、それに反対し、むしろ内々で辞職勧告とするよう慎重な道を選べ、と言ったのは藤岡氏でした。
 しかるに、新田氏らいわゆる四人組は、お前たちは宮崎に責任を押しつける手前、金を払ってごまかすという汚い手を使った、と居丈高に理事会で発言しました。私はこういうコンテクストの中で、こういう理窟を言い立てる人々とはとても席を同じくすることは出来ないと思って、それが辞任に至った直接の原因でした。


   ☆    ☆    ☆


●(資料2)辞めた後の「つくる会」との関係


1月17日(執行部メーリングリスト)

 このたび名誉会長の称号を返上して、名実ともに完全に同会から離れ、書斎にもどることといたし度、同会幹部の合意をいただきました。

     ────────────────

2月3日「藤岡氏宛メール]

 昨夜は貴方にとって何のためにもならない会合をなぜしたのですか。
 八木氏と握手させようとしている鈴木氏があなたの最大の敵だということがわからないのですか。
 わたしが「これから八木コントラ藤岡のはてしない闘争が始まる」といったら、あなたはニヤニヤ笑っていればいいのに、なぜすぐ打ち消したのですか。
 きのうは鈴木さんに仕切られ、あなたは八木さんのペースにはまってしまいました。なんのための会ですか。
 それよりなぜ求めて執行部会を開かせたのですか、会合をしない会長の怠惰をついて、文書攻撃をすべきだったのではないですか。
 行動は果敢に、そして孤独にひとりでゆるものです。西部グループに公民教科書で屈したときに、わたしは援軍もなく一人でした。小林を追放したときは田久保さんがみかたでした。でも貴方でさえ傍観者でした。
 こんどあなたには私をふくめ、たくさんの援軍がいます。しかし援軍はあくまで、助っ人です。それ以上のものではありません。
 覇権は自分で獲得するものです。
 私はあなたを緊急応援するように、三副会長と福地さんに今朝、檄をとばしました。   (西尾)

     ────────────────

2月27日の理事会前、講演先の大阪で「くつる会」関係者に西尾氏がささやいた言葉

「今度の理事会は大変なことになるよ」

     ────────────────

2月28日(八木会長解任、種子島会長就任の翌日)の昼過ぎ、西尾氏から種子島氏への電話(種子島氏「狂乱の春」5月26日)

この日の電話は、私の時間帯に配慮してお昼過ぎだった。
「ご苦労だが、2.3年やって、福地さんに譲るんだな」
 私は、後で述べる理由から、短期のリリーフを決意していたので、2.3年もやる気はないこと、福地さんは私が副会長を辞めた昨年9月理事に就任された方で全然存じ上げないから、会長候補の一人として考えること、を答えた。彼の人選にはたまに全然ピント外れのものもあり、こんなことで彼の意見を鵜呑みにするつもりはなかったのである。別途、二度まで「会」との絶縁を宣言している人が、その会長人事に言及するなど、遠慮すべきことをメールしておいた。
   (中略)

 私は、昨年9月以来という私にとっての空白地帯に関して、当事者に聞き、私自身考えることを始めた。その結果私なりに理解できたのだが、ここでも実は藤岡さんの呪いだったのだ。彼が年若いライバル八木さん追い落としを画策し、それに西尾さんが乗った、この二人はいずれおつらぬ自分中心の天動説論者で、宿命的に仲が悪いのだが、ただ、誰かを呪い潰そう、という際だけ共同戦線を組むこともある。いうなれば呪い仲間である。
   (中略)

西尾、藤岡両天動説巨頭は、私について読み違えていたようだ。私を会長に据えておけば、私は西尾さんの「院政」に従い、藤岡さんの「傀儡」になって、彼らの思う通りに動く、と考えたのだろう。

     ────────────────

2月27日の理事会後に再び大阪の「つくる会」関係者に西尾氏が語った言葉

「[2月27日の]理事会はシナリオ通りだった」

     ────────────────

3月7日、西尾ブログ「『つくる会』顛末記 ーお別れに際してー」

 いかなる意味でも私は「つくる会」に今後関係を持たないこと、影響力を行使しないことを宣言します。
(中略)
 名誉会長の名で会長より上位にある立場を主宰することは二重権力構造になり、不健全であるとかねて考えていましたので、いわば採択の谷間で、離脱を決意しました。
   (中略)
 しかし1月16日に重要な理事会があり、17日に名誉会長の称号を返上したのですから、昨秋より最近の内部のさまざまなトラブルに対し私もまた勿論無関係ではありません。私が自らの判断と言動で一定の影響力を行使したことは紛れもありません。
   (中略)
 いずれにせよ今日を最後に、私は「つくる会」の歴史から姿を消すことにしたいと思います。
皆様どうも永い間ありがとうございました。


     ────────────────

3月16日、西尾ブログ「寒波来襲の早春ーつれづれなるままにー(一)」

 3月3日には扶桑社の編集者真部栄一さんと荻窪で酒を飲み、「つくる会」の今回の推移をみていると、西尾は会を影で操っている「愉快犯」だとさんざんな言いようでからまれた。2月27日の、私がもう参加しない理事会で会長、副会長の解任劇があったことを指している。
 私は会の動きに関心はもっているがーそれもひごとに薄れていくがー影で操るような魔力を持っていると思われるのは買い被りで、残った他の理事諸氏に対して失礼な見方である。新会長に選ばれた種子島氏がたまたま私の旧友だからだろうが、私が「院政」を企てているという妙な憶測記事を3月1日付の産経新聞がどうかしているのだ。このところ産経の一、二の若い記者に、一方に肩入れしたいという思いこみかの暴走があるのではないか。私は「つくる会顛末記」を書く必要があると感じた。

     ────────────────

3月23日(『週刊新潮』)

「すでに辞任を表明しているのですが、院政などと誤解されないように、全く関係がなくなったことを宣言しておいたのです」

     ────────────────

3月29日、西尾ブログ「産経新聞への私の対応」

 産経新聞の記者の中に明かに会の一部の勢力の謀略に協力して、捏造記事を書く者がいることが以上で明瞭になったので、私に対する名誉毀損(「西尾元会長の影響力排除」)も含まれているので、本日、産経新聞社住田良能社長に書簡を送り、事実調査をお願いした。記者の名を公表し、厳重に処罰することを要求した。書簡は29日付の郵送である。

     ────────────────

4月2日、西尾ブログ「産経新聞への私の対応(二)ー種子島会長の書簡公表ー」

 私は心機一転して、昨日は「桜の咲く少し前」を日録に出して、バカバカしいことから離れたいと思っているのに、後から後から追いかけてくるのです。申し上げておきたい。私は会に関与などしたくない。一般会員証も返したいと思っている。たゞ私は不正を憎んでいる。なにかがおかしい。今回はなにかが狂っている。

     ───────────────

4月3日、西尾ブログ「産経新聞への私の対応(三)ー『諸君!』などもー」

 3月に入ってから「つくる会」の周囲には精神的になにか異様なものが漂っている。怪メール、脅迫状、偽情報を用いた新聞利用ーなどなど余りにも不健全である。「つくる会」がこれからいかに再出発しようとしても、こういうただならぬ空気を抱えた侭で自由で、の暢びやかな活動が果たしてできるのであろうか。私はそれを心配している。

     ───────────────

4月5日、西尾ブログ「産経新聞への私の対応(四)ー共同謀議の可能性ー」

 八木、新田、内田の三理事が天麩羅屋で共同謀議をしていたか否かについては「つくる会」の理事会に調査権がある。物事を自分に有利に運ぶために報道機関を利用した罪は重く、悪辣であり、調査の結果いかんでは、「つくる会」がの三理事の追放処分が当然の措置となる。

     ──────────────

4月13日、西尾ブログ「怪メール事件(三)」

 田久保氏の誠実さ、福地氏の剛毅さ、高池氏の智謀――この三つはいまだ「つくる会」に望みを託せる人間の存在を告げ知らせてくれる。何らかのことで三氏が会を去れば、この会は本当に終焉を迎える。

     ──────────────

4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」

 私が1月の理事会の翌日の17日に名誉会長の称号を返上し、会を離れる声明を出したのは、「つくる会」を見捨てたからではなく、会の外部に出て誰に遠慮もせずに内部の恥部を暴き、病巣を剔り出し、背後にうごめく他の組織の暗部に光を当てようと決心したからであった。
(中略)

 私はこの会に「宥和」の政策はもはやあり得ないと考えている。八木氏の代わりに強力な指導者が立って、強権発動して「四人組」を排除してしまう以外に会が救われる道はなく、そのためには現状では同じ方針を公言していた藤岡信勝氏に会長になってもらうのが一番いいと思った。それ以外に方策はないだろう。1月後半から2月にかけて、私だけでは決してなく良識派は他に選択肢はないと認識し、おおむねそういう判断だったといってよい。丁度正論大賞の受賞もきまり、藤岡氏には追い風だった。何で氏が阻まれる理由があろう。
 私はこの希望や期待を会を離れた直後の当時、誰にも隠さなかった。1月25日に九段下会議が終って、飲み屋で友人数人に事情を全部開陳した。30日の路の会で保守系知識人の諸先生に背景の経緯を全面公開し、藤岡さんにいよいよ会長になってもらうべきときが来た、と言った。その席に小田村四郎氏、石井公一郎氏といった日本会議の重鎮もおられた。
 たちまち八木氏の耳に入った。当然である。私は隠し立てするつもりもないし、名誉会長を辞めても一会員として主張すべきことを主張する権利を失ったわけではない。
 国家の機密じゃあるまいし、たかが私的団体のこれからの方向に期待を表明するのをなんで陰険に隠し立てする必要があろう。
 (中略)

 ところで、上記とは別件だが、「怪メール事件」(一)~(四)において私は「つくる会」をつぶせなどとひとことも言っていない。厳しい自己否定を潜らなければ、会の再生は望めないと言っているまでである。文章というものを読めない人がいる。否定で語りかけることが強烈な肯定であることがなぜ分らないのだろう。
 私は裏切りや謀略に関与した6人の理事の辞任を一会員として要求する。残りの理事諸氏は会を再建させ、発展させる十分な力を有しているので、会員諸氏は安心し、これからも期待してよい。

     ────────────────

5月21日、西尾ブログ「残された謎――種子島氏の変節」

 昔からの「日録」の読者の中には、「つくる会」問題はもうそろそろやめてもらいたいと考える人も少なくないだろう。私にしてもやめたい気持はやまやまである。読者にはあともうほんの少し辛抱してほしい。私にはまだ若干の証言責任が残っている。

────────────────
     
5月25日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (二)」
  
「名誉会長」は完全な閑職だったのです。私は総会が終れば辞めるつもりでした――本当に9月で辞任してしまえばよかった――が、辞めるなどトンデモナイという漠然とした「風圧」に押されてぐずぐずしていたにすぎません。
 心が会から離れていました。紛争が起きるまで、関心を失っていました。しかし何か事が起こると「名誉会長」は必ず引っ張り出される宿命にあります。みんなはそのとき私の存在を思い出すのです。

     ────────────────

5月25日「私が『新しい歴史教科書をつくる会』を去った理由」(『サピオ』6月14日号)

 そういう[会を辞めた]人間が、自分が離脱して以降の人事をめぐって生じた「つくる会」の混乱について発言しなければならないのは煩わしいが、1月に辞めた私に4月に怪メールが送られてくるなど、いわば「事件」が私を追いかけてくるのだから致し方ない。


   ☆    ☆    ☆

●(資料3)藤岡信勝氏について


2月3日「藤岡氏宛メール]

 こんどあなたには私をふくめ、たくさんの援軍がいます。しかし援軍はあくまで、助っ人です。それ以上のものではありません。
 覇権は自分で獲得するものです。
 私はあなたを緊急応援するように、三副会長と福地さんに今朝、檄をとばしました。   (西尾)

     ────────────────

3月23日(『週刊新潮』)

私の書いた[歴史教科書の]部分を岡崎久彦氏が変えてしまったのですが、岡崎氏は“自分が手を入れたことで誰に見せても恥ずかしくない内容になった”と雑誌で自慢しているんです。それを釈明も謝罪もしない執筆代表者の藤岡信勝氏に腹が立ってしようがなかったのです。

     ────────────────

4月8日、西尾ブログ「怪メール事件(一)」

他人の心をつかめずに退任の自由を操ろうとして、それが謀略めいてみえて、信用を失うことを彼は10年間、そして今も繰り返している。自分の権能の及ぶ範囲と及ばぬ範囲との区別が彼にはつかない。このため小さな策を弄して、他人を言葉で操って動かそうとし、現実が大きく変わるとたちまち昨日言ったことを替えて、結果的に彼を支持しようとしてきた人の梯子を外す。裏切りである。言うことがクルクル変わる。昨日顔を真赤にして怒りを表明していた相手に、今日はお世辞を言って接近する。今日たのみごとがあると下手に出て礼をつくすことばで接触するかと思うと、用が終ると、同じ人に数日後に会っても鼻もひっかけない。
 彼と付き合えばみんな分っているこういう彼の性向挙動は、多分共産党歴の長い生活と不可分で、党生活が人間性、普通の良識ある社会性を破壊してしまったものと思われる。彼は平成に入ってもなぜかビクビクして生きてきたように思える。

     ───────────────

4月9日、西尾ブログ「怪メール事件(二)」

 どこまでも残留するのは、およそプライドというものを持たない藤岡氏であろう。何度も副会長を降ろされてなお辞めない。彼は教科書問題の残存する場所にひっついていなければ生きていけないからなのか。八木氏に奴隷のように扱われても、伏してお願いし、理事の末端に居残るだろう。そして最後に叩き出されるだろう。

     ───────────────

4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」

 私はこの会に「宥和」の政策はもはやあり得ないと考えている。八木氏の代わりに強力な指導者が立って、強権発動して「四人組」を排除してしまう以外に会が救われる道はなく、そのためには現状では同じ方針を公言していた藤岡信勝氏に会長になってもらうのが一番いいと思った。それ以外に方策はないだろう。1月後半から2月にかけて、私だけでは決してなく良識派は他に選択肢はないと認識し、おおむねそういう判断だったといってよい。丁度正論大賞の受賞もきまり、藤岡氏には追い風だった。何で氏が阻まれる理由があろう。
(中略)

 2月2日の午後6時ごろ八木氏から私に電話がかゝり、これから藤岡、鈴木の三氏でつれ立って私の家に来たいという。緊急の相談があるらしい。西荻窪に彼らを迎え、空腹の三人に酒と粗餐をさし上げて、なごやかに、気分も良く話し合った。これ以上会のことを他人に話さないでほしい、というのが八木氏の私への要望であった。別れしなに「八木さん、ときどき電話を掛けてくださいよ」と私は言った。
 私の藤岡支持に変更はなかった。しかし、藤岡氏は鬱病にでもかかっているのではないかと思われるほど元気がなかった。2月3日朝、私は「昨夜の意図は?」と題したメールを彼に打った。するとメールの行間に、彼がペンで反論を書きこみ、ファクスで送り返して来た。それが以下に掲げる「西尾・藤岡往復私信」の全文である。
  (中略)

 以上の「西尾・藤岡往復私信」を経過して、私は藤岡氏にいたく失望した。穏和しい性格ではないのに、妙に温良ぶっている。戦意をすでに喪失している。昂然の気概がない。それにまた、心を打ち明けあった「私信」にユーモアひとつ書けないようではもうダメだ、先行きこれは見込みないと正直がっかりした。
 「覇権」ということばがたゞのレトリックだということがどうして分らないのだろうか。「私の目的はよい歴史教科書を多くの子どもに届けることによって日本を建て直すこと」だって?
 冗談じゃないよ。なんでこんな当り前すぎる、教訓めいたことばしか出てこないのか。
 せめてひとこと「私は覇道ではなく王道を歩みます。されば援軍は雲霞のごとき大軍となりましょう。ご心配なく。」くらいの悠然たる言葉をなぜ吐けないのか。
 心がちぢこまって、生真面目がいいことだと思って、言葉に遊ぶ心が全然ないのである。それでいて物静かで地味な真面目さが本領という人柄ではなく、何かというとむきになって、顔を真赤にして、激語乱発で怒っている。
 もちろん怒ることはいい。怒りは精神の高貴さにつながる。しかし真の怒りにはどこか他が見て笑いが宿っているような風情がなくてはいけないのだ。
 この「私信」は私が藤岡氏に本心をぶっつけ、彼が自分の正体をさらした最後の記念的文章だから全文をのせた。これ以後、会長候補として彼を支持する気持はどんどん失せていった。私は彼を可哀そうな人だと思うようになった。彼は何が理由か分らぬが、すでに背骨が折れている。)

 1ヶ月後の3月初めにさらに何かが起こったようだ。藤岡氏は6日の首都圏支部長会議で「八木氏は日本の宝です」と発言し、周囲をびっくりさせた。5日にはメールの激語が八木氏の家族をおびやかしたからといわれて、菓子折を持って八木氏宅に謝罪に行ったという噂がパッと広がった。鈴木氏がここでも悪い役割(藤岡氏の男の値打ちを下げる)を果たしている。
 あの「怪文書1」、「日本共産党離党H13」のメールがあちこちに撒かれたのは3月初旬の同じ頃である。因果関係は分らない。
 藤岡氏は3月11、12日の全国評議員・支部長会議で沈痛な表情で多くを語らなかったそうだ。いい気になって藤岡排撃の侮辱語を並べる新田氏の演説に隣席でじっと耐えつづけるその姿は、哀れを催すばかりの悲惨さであった、とある評議員が私に報告してきた。
 「つくる会」の半年に及ぶ混乱の原因の第一は、もとより八木氏の職務放棄とくりかえされる反則行動にあるが、しかし、それよりもっと大きな原因は藤岡氏の人間としての弱さにある。一方が倒れかかっているとき、他方の軸がぐらついていてはどうにもならない。いよいよになると藤岡氏は不可測な行動をする。
 ある理事に私が「藤岡さんには失望した。彼は将たり得ない人物だ」と言ったのもこの頃である。
 (中略)

 私は藤岡氏に同情こそすれ、決して道義的な罪を犯したことはないが、氏は2月3日付の「西尾・藤岡往復書簡」を同じ日に鈴木尚之氏に渡した、と表明している。一生懸命に彼を支援しようとしていた私に対する、同じ日の直後に起こった背信行為である。
 「八木氏と握手させようとしている鈴木氏があなたの最大の敵」と書いた私のことばに藤岡氏は「全くのまちがいです」と付記した事実はご覧の通りであるが、鈴木氏に対し自分が善良な心を持っていることを証明し、鈴木氏への忠誠心を誓うために私との「私信」を利用したのである。
 自己弁明のためにあっさりと他人を売る。しかもその他人は自分を守り、支えようとしている人である。信義は弁明より値が安い。自分が誰かに媚を売るために、信義なんか糞くらえ、なのだ。藤岡氏はそういう男である。
(中略)

藤岡さん、やはりあなたが保守思想界に身を投じたのは周囲の迷惑であり、あなたの不幸でもあったのではないか。

     ────────────────

5月21日、西尾ブログ「残された謎――種子島氏の変節」

 藤岡氏は2月27日の八木会長解任の前後まで意気盛んで、八木氏と四人組を追放することに自信満々の風があったが、3月初旬から急変して、弱腰になり、八木氏にすり寄りだした。なぜだろう。多分、「怪文書1」(党歴メール)の脅迫効果だろう。本人は証言していないが、私でなくても歴史の記録者は他に理由は考えられないと書くだろう。

     ────────────────

5月23日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (一)」
         
 坂本〔本多加雄〕氏が藤岡氏を評して「最初会ったときは田舎の中学校の先生みたいな素朴な人の印象だったが、間もなく断然変わっちゃったからなァ」と言ったのを覚えています。どう変わったかというと、「藤岡さんは次々と人を追及し、弾劾して、あれでは最後には自分以外はひとりもいなくなってしまうよ。」と言っていました。今よりもっと凄かったのです。
 最初の4年半(私の会長時代)に比べれば、今の藤岡さんはずっと穏やかな、場を弁えた紳士です。昔見ていた狼のような猛々しさがむしろ懐かしい。
 善かれ悪しかれこの会は藤岡氏の個性、創意と熱情でもって来ました。ほかにも小林よしのり氏や濤川栄太氏のような個性豊かな巨獣がいて、私はサーカスの猛獣つかいでした。よくやれたものです。
 藤岡氏の存在なくしてこの会はなかった。私はそれをはっきり言っておきます。私自身は「教科書」に基本的に関心がないからです。にも拘らず、藤岡氏の存在がこの会をたえず危くもしてきました。
 ただし藤岡氏は今回なにも咎められるようなことをしていません。むしろ一番、首尾一貫していて、大きく変節したりしない立場を貫いてきました。それでも、辞任していった八木元会長以下いわゆる「四人組」の理事諸氏と宮崎元事務局長の藤岡氏への「憎悪」の情は並大抵のものではありませんでした。

 私も藤岡氏からは何度も煮え湯を呑まされています。その個性の特殊性については「怪メール事件(一)」で詳しく分析しておきました。私以外にも、氏に対し好き嫌いのレベルで複雑な思いを抱く人は少なくないでしょう。
(中略)

 ここまでくると私は藤岡氏が哀れでなりません。保守思想界に身を転じたのは周囲にも迷惑だっただけではなく、ご自身にも不幸だったのではないかと前に書きましたが、今もその所見は変わりません。
 平成8年の「つくる会」創設の少し前に、噂を聴いて、藤岡氏の上司であった天野郁夫東大教育学部長が――私は当時非常に親しくしていました――私に葉書を寄越した。「西尾さんが組むべき相手ではない。あなたはきっと後悔する。止めなさい」と書いてきました。
 止めておけば良かったのかもしれませんが、しかし私は必ずしも後悔はしておりません。藤岡氏の野性の激しさ、論理の明解さに私は共感もし、同調もしてきたからです。10年という歳月、私と氏は共闘して来ました。その歴史は元へ戻りません。

 昨年の夏から始まった「つくる会」内紛では、藤岡氏は八木氏とその仲間たちよりもはるかに筋が通っていました。だから私は彼を支持したのであり、今も変わっていません。たとえ陰険だとか冷酷だとかいわれても、彼にはもっと激しく、もっと真直に、信念を曲げず、初志貫徹を目指してやってもらいたいと思っています。
 一番いけないのは氏が神妙に妥協的になることです。柄にもない優雅を装い、礼節を演技し、口先の宥和を目指す場合の自分らしさの喪失です。どうか恰好をつけないでほしい。
 たとえ相手が産経でも、おどかされて妥協したらすべてを失いますよ。最近の藤岡氏は、自分が悪役だと思われたくないためにか、おどかされてビビったり、他人に責任を転嫁したり、考えをクルクル変えたりするようになり、私は心配しています。心理的に「躁」の状態と「鬱」の状態の落差が大きくなってきたからです。
「つくる会」の安定は何といっても藤岡さんの心の安定が鍵です。まずこれは本稿の第一前提とします。

     ───────────────

5月31日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (三)の1」
 
 初代の事務局長は草野隆光さんといい、北大の助手をしていて、藤岡氏が北海道から連れて来ました。助手といっても藤岡氏より年上で、東大教授の藤岡氏を見下す態度でものを言っていましたので、いつか何かが起きそうだという予感は最初からありました。
(中略)
 草野さんは間もなく、私の知らない所で案の定藤岡さんと衝突し、会を去りました。草野解任に関する限り、私も狐につままれたようで、事情をまったく知りません。藤岡氏が「草野君はケシカラン」としきりに息まいていた顔だけを覚えています。本当に何があったのでしょうか。無責任といわれても、藤岡氏が北海道からつれて来た人のことですから、あの件だけは私の記憶の中は空っぽです。

     ───────────────

6月3日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (四)の2」

 さて、平成13年の第一回採択戦が敗北に終って、平成17年の第二回採択戦の後とまったく同じように、事務局の改革が自己反省の第一に取り上げられた時期に、事務局長高森氏はあらためて仕事ぶりが問われることになります。
(中略)

 けれども藤岡氏だけは事務局長のやる気、企画力、運動力が問題だと言い出していて、高森氏のやり方にいちいち疑問をぶつけるようになっていました。
 事務局の能率化を唱えている藤岡氏と高森氏の間は間もなく険悪になります。要するに藤岡氏は仕事をテキパキ合理的に推進することを事務局に求め、だらだら無方針で、非能率にやることが許せない性格なのです。他方、私は要するに放任派で、だらしなく、藤岡さんは責任感が強く、厳格だということです。宮崎氏に対したときとまったく同じ状況が生まれました。

     ────────────────

6月9日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (六)の3」

 藤岡氏は財務の一件[会員管理システム契約時のこと]になるといつも完全に沈黙します。後で人から聞きましたが、「西尾氏がコンピュータのことで騒ぐのは、田中会長を困らせ、追い落とすための工作だ。」こんなことを言ったというのです。


   ☆    ☆    ☆

●(資料4)八木秀次氏について


平成18年1月10日(執行部メーリングリスト)

八木会長殿

会長の藤岡氏への回答のなかに、「会長としては執行部内部の宥和を図らねばな らず」という文言があるが、会長はどうしていまさら「宥和」という言葉を使えるのであろうか。会長は昨年の12月25日より前に、副会長四氏と私に対し必死に説得し、説明し、状況を打開すべく努力し、執行部の意思統一を図る立場ではなかったであろうか。それがあったならいま「宥和」という言葉を使うことも 可能であったろう。

しかるに実際には会長はわれわれ他の執行部メンバーを無視し、言を左右にして逃げ回り、答えず、語らず、みずから主催すべき執行部会をひとごとのごとくに他にゆだね、われわれの要請にさながらいやいやながらの風情で少しだけ応じ、しかも謝罪せず、感謝もせず、「宥和」を図るどころか、あたかも「対立」を密かに期待するがごとき行動であった。

というのは、他の執行部メンバーに完全に秘密裏に、問題の渦中の人物宮崎氏を中国に平然と同行した一件のもつ不可解さだ。ある理事いわく「裁判官が被疑者を料亭につれていったようなもの」と評されるようなことをやってのけたのは、宮崎氏を問責している立場のものへの無神経な挑発であっただけでなく、執行部への裏切りともいうべき行動であった。

加えて反乱の長であり、全共闘まがいの言辞を弄して常識ある他の理事を今度という今度はほんとうに心底驚愕させた内田理事をひとり不用意に年末の事務局の納め会に呼び、「対立」をさながら煽るがごとき行動をくりかえした。何がいまさら「宥和」であろう。「対立」をみずから拡大しておいて、自らの陣営をかため、そのうえで「宥和」をいいだすのは党派的な、あまりに党派的な利益誘導行動であって、底意を疑わずにはおられないものがある。

これはよくある革命政治家の行動パターンである。八木氏はなにを考えておられるのか。なにを画策しておられるのか。意図的ではないか。

あなたはこの会が教科書の会であり、採択を最優先課題においている地味な会であることを知ったうえで行動しているのか。それとも他のなにかのーーそれは何であるかはわからないがーー 目論見があり、手段として会を利用しようとひそかに考えて行動しているのではないか。あなたの一貫した行動にはそうとしか思えないものがある。

われわれの誤解をとくために、あなたは謙虚に全力をあげて説得にあたってきたであろうか。それどころか、そういう努力はつねにせず、いきなり「宥和」という旗をかかげて、すべてをあいまいにして、ご自身の底意を覆い隠そうとしているのではないか。

     ────────────────

3月7、日西尾ブログ「『つくる会』顛末記 ーお別れに際してー」

 八木さんが不手際だったとも思いません。彼は彼で精一杯会を守りたいと念願していたのでした。しかし、藤岡さんはじめ他のメンバーも会を守りたいと考え、激しくぶつかるほかありませんでした。

     ────────────────

3月16日、西尾ブログ「寒波来襲の早春ーつれづれなるままにー(一)」

 八木秀次氏から会いたいと電話が入り、3月5日の日曜日の夜、西荻窪の寿司屋でゆっくり会談し、肝胆相照らした。彼は私の息子の世代である。彼が会を割ってはいけないという必死の思いだったことはよく分った。しかし、それならなぜそのことを辞表を出した三人の副会長や私に切々と訴えておかなかったのか。言葉が足りなかったのではないか、と私は言った。電話一本をかける労をなぜ惜しんだのか。
 すべてことが終ってからの繰り言はこんなものである。八木さんは自分の解任は不当で、自分を支持する勢力はなお大きいので、どうしたら良いかと私に質した。これが会談を求めてきた眼目だったようだ。私は答えようがない。再び指導力を結集して再起を図るなら、次の総会で再選される手を着実に打っていく以外にないだろう、と答えた。そのためには11、12日に行われると聞いている評議員・支部長会議に無理してでも出席した方がいいよ、と忠告した。日程がつまっていて困った、と言っていたが、出席して熱弁を振ったのであろうか。

     ────────────────

4月9日、西尾ブログ「怪メール事件(二)」

会長としての職務放棄と指導力不足、具体的にいえば、長期にわたり理事会を開かず混乱を放置し、唐突な会長声明を出してそれをまた取り消すなど、何をやっているのかといわれるような体たらく振りが理由で、解任されたのに、自分は何も悪いことをしていない、不当な解任だと言いつづけていた。
(中略)

情報メールを私に送ったのはひょっとして八木氏自身ではないかとさえ思うが、真偽は分らない。しかしメールの発信者でないとしても、公安とのパイプを強調し、それを種子に「つくる会」の理事を貶める言動を示したことは、メールを未知の人に秘かに送るのと同じ行為である。少なくとも公安を用いて仲間を脅迫していることでは同じである。
 八木氏は一体自分がしていることがどんなに恐ろしいことかに気がついているのだろうか。氏は「公安のイヌ」になり下がっているのである。
 昔ならそれだけで言論人としての資格剥奪である。今だってそれに近い措置をされても文句を言えまい。
 八木氏は大きな政治背景をもつ謀略の意図があってやっているのならともかく、それよりももっと悪いのは、謀略のまねごとに手を出し、自分が何をしているのか分っていない「未成熟」な人間なのである。
(中略)

 私にはどこまでもまだ間接情報である。けれども八木氏が「公安のイヌ」となって、自分の地位上昇のために、新聞記者を威して、報道を誘導し、ねじ曲げさせたことは疑いを容れまい。
 仄聞する処では八木=宮崎その他四人組の一部はいつも合議し、そのつど渡辺氏が呼ばれて同席していたという。3月1日、2日、9日、29日の偏向報道の上手に仕組まれた構成はこうして作られた。
(中略)

 不思議なことに八木氏は汚れ役をやらない。人にやらせる。彼は11、12日の評議員・支部長会議に姿をみせなかった。6日の首都圏支部長会議にも出席しない。批判を浴びそうな場からはパッと身を引く。「逃げも隠れもしないよ」という男らしさがない。理事会を長期間開かなかったのもこの手である。連絡をしないで相手をじらせる手も知っている。そしてウラで知能犯的な作戦を練る。小型スターリンの真似である。身体を張らないで、上昇志向のみ強く、心は冷たい。
 こういうタイプが会長になれば「つくる会」は異様な雰囲気の漂う、自由にものの言えない沈滞した独裁体制になるであろう。そして何よりも、八木=宮崎プラス四人組グループ以外の多数派の理事が次々と辞意を表明し、逃げていくであろう。
(中略)

 このまま予定どおり八木会長体制が成立すれば、どうなるかの予想を描いてみた。八木氏は「公安のイヌ」であることを片時も忘れるな。
 人間は目的のために手段を選ぶ。そこに人間の品位がかかる。

     ────────────────

4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」

 藤岡氏の私に対する行為には人間的信義をゆるがす道義的な罪の匂いがするが、犯罪の匂いはしない。しかし八木秀次氏の私に対する行為には、脅迫罪や私文書偽造といった、刑法上の罪の匂いがする。

     ────────────────

5月21日、西尾ブログ「残された謎――種子島氏の変節」

 八木氏の行動のもう一つの不思議さは、黙って穏和しくしていれば、7月2日の総会で会長に推戴される「含み」であることが分っていたのに、3月初旬から28日の理事会までに、やらんでもいい「怪メール」に手を出すなど不始末をしでかしたことだ。

     ────────────────

5月28日、西尾ブログ「ペテン師の文章」

八木氏を降ろすための宮崎更迭というような観点が西尾にあったかのごときもの言いをしているが、そもそも私の中にそのような思考はない。第一、八木氏に対して私は敵対感情などをまったく持っていなかった。私は彼を可愛がっていたのである。関係がおかしくなったのは、昨年の11月頃の八木氏の態度変更、遠藤、福田、工藤三氏が八木氏に不信感情をもつようになったときと同時期である。あのころにわかに彼はふてぶてしくなった。礼節を失った。そう思った。聞く処では過去にも八木氏は勤務先で上司に対し類似のトラブルを起こしているという。そういうタイプの人だと私は知らなかったのが不覚。


   ☆    ☆    ☆

●(資料5)種子島氏経氏について


2月28日(八木会長解任、種子島会長就任の翌日)の昼過ぎ、西尾氏から種子島氏への電話(種子島氏「狂乱の春」5月26日)

この日の電話は、私の時間帯に配慮してお昼過ぎだった。
「ご苦労だが、2.3年やって、福地さんに譲るんだな」
 私は、後で述べる理由から、短期のリリーフを決意していたので、2.3年もやる気はないこと、福地さんは私が副会長を辞めた昨年9月理事に就任された方で全然存じ上げないから、会長候補の一人として考えること、を答えた。彼の人選にはたまに全然ピント外れのものもあり、こんなことで彼の意見を鵜呑みにするつもりはなかったのである。別途、二度まで「会」との絶縁を宣言している人が、その会長人事に言及するなど、遠慮すべきことをメールしておいた。
   (中略)

 私は、昨年9月以来という私にとっての空白地帯に関して、当事者に聞き、私自身考えることを始めた。その結果私なりに理解できたのだが、ここでも実は藤岡さんの呪いだったのだ。彼が年若いライバル八木さん追い落としを画策し、それに西尾さんが乗った、この二人はいずれおつらぬ自分中心の天動説論者で、宿命的に仲が悪いのだが、ただ、誰かを呪い潰そう、という際だけ共同戦線を組むこともある。いうなれば呪い仲間である。
   (中略)

西尾、藤岡両天動説巨頭は、私について読み違えていたようだ。私を会長に据えておけば、私は西尾さんの「院政」に従い、藤岡さんの「傀儡」になって、彼らの思う通りに動く、と考えたのだろう。

     ────────────────

4月9日、西尾ブログ「怪メール事件(二)」

 3月28日の理事会に先立って、種子島氏は八木副会長案を八木氏に打診した。八木氏は3月末にすぐ会長として復帰するのでなければいやで、副会長ならむしろ平の理事でいたい、と返答した。そして翌日誰かと相談したらしく、種子島氏に電話で副会長案を受け入れるとあらためて言ってきたそうだ。自分を何さまと思っているのだろう、とある人は言った。
 しかし種子島氏はホッとした。なぜなら種子島会長は八木=宮崎四人組グループに、3月の初旬のあるときを転機に、完全にとりこにされ――なにか仔細があるかもしれない――今や百パーセント屈服しているからである。そこには理性も、道理も、判断力も、そして未来への予知力ももはや認めがたい。
 かくて「八木問題」はいつしか「種子島問題」と化しているのである

     ────────────────

4月30日、西尾ブログ「新しい友人の到来(三)」

 会長、副会長の自己弁解を披瀝したつくる会FAX通信172号は、新執行部(高池会長代行)の成立直前に、これを出し抜いて出した種子島、八木両氏の犯した、不正かつ卑劣な文書で、ただちに無効となっている。
 私はただ、八木は知らず、種子島の何故かくも、陋劣なるかを、彼を知る旧友とともに哀れむのみ。

     ────────────────

5月21日、西尾ブログ「残された謎――種子島氏の変節」

 宮崎問題は藤岡問題になり、次いで八木問題になり、そして今は最後にひとつだけ謎が残っている。私はもう電話もメールもしたくないし、向うも受けたくないであろう旧友種子島君の問題である。4月30日の彼の会長辞任の少し前まで私は彼と交流があって、以来、いっさいの関係を双方で断っている。
 (中略)

種子島経元会長の突然の変節はどうしても分らない。実業畑を歩いてきた人なら知識人世界に遠慮は要らないはずだ。産経や扶桑社の社長がどんな顔をみせようが、いっさい黙視してよい立場ではないのか。
 2月27日に種子島氏を会長に選んだ勢力は、八木氏を解任して会長の座から投票によって降ろしたのとまったく同じ勢力である。だから種子島氏は藤岡、福地両氏を補佐に選んだのだった。だとしたら自分を支持したこの同じ勢力にある程度誠意を見せつづけるなど拘束されるのが常識だろう。ところが、3月に入ると――あの党歴メールが飛び交い、八木氏が産経渡辺記者に見せるなどして触れ回っていたあの時期に――種子島氏はあれよあれよという間に心変わりし、一方から他方へ、自分を支持していた勢力からその反対派へ誰にことわるでもなく変節してしまった。

 ここにどんな怪しげな力が外から働いているのか、本人に聞かなければ分らない。3月初旬の大阪、福岡での説明会で藤岡批判が高まり、八木コールがあったからだといわれているが、大阪に関する限り、違う証言をきいている。たしかに大阪でも藤岡氏の説明の独断調が集った会幹部ににがい思いを与えたそうだ。けれどもさしたる八木コールもなかった。また、別れしなに大阪支部では八木、藤岡両氏の副会長就任を種子島氏に約束させ、会を割らないようにと強く要請した。
 しかるに種子島氏は帰京するや八木副会長一点張りになった。びっくりさせる変身だった。会員の世論に合わせるためだと言った。そして、福地氏が複数副会長制を唱える声にも耳を貸さなかった。このときの八木一点張りの決定が会を分裂させた決定的要因である。
 いったい何が種子島氏をしてかかる一方的独断的行動に走らせたのであろう。
(中略)

 種子島氏のあれよあれよという間に変わった理解のできない変節と、てこでも動かぬ頑迷振りの背後にはやはり何といっても、説明のできない謎が感じられる。彼は何かを隠している。
 なぜ彼は既往のことは問わずにこれからのことだけを考えようとしきりに言ったのか。何かがあるのではないか。私は多分謎の解明はできないが、現理事のまったく知らない諸状況をこのあと「続・つくる会顛末記」で最終的に証言する。

     ────────────────

5月25日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (二)」

 事務局長問題は8月に始まったと前に書きましたが、正式に問題としたのは藤岡氏でもなく、私では勿論なく、種子島副会長(当時)であったことが分ります。
(中略)

 ところがこの同じ種子島氏が2月27日に会長になるや、たちまち豹変し、投票数まで書いたつくる会ファクス通信165号の宮崎氏による退任直前の不法差し換え事件に、しっかり厳罰でのぞむということもできませんでした。それどころか、宮崎復帰をも射程の中に入れる八木会長復活案を言い出しました。3月28日の理事会でこれを決し、7月に八木会長を実現し、宮崎氏も復帰させるとの含みで走り出したのですから、あれよあれよという間に変貌した種子島氏の姿には妖怪変化を見るがごとき不可解な思いでした。
 いったいどうなっているのでしょう。まことに不思議でなりません。

     ────────────────

5月28日、西尾ブログ「ペテン師の文章」

1、種子島氏はコンピュータは今動いていて問題はない、というが導入に巨額の金のかかったことが問題。また今動いていても保守がなされなければ昨年のようにいつ再び不調になるか分らない。それがコンピュータというもの。3年前にきちんとした保守契約がなされなかったことが問題。というか、相見積をとるなどの、契約そのものの観念がなかったことが問題。責任は宮崎氏に3分、財務担当理事の種子島氏に7分あると私は思っている。

2、「怪メール事件」は些細な問題で、まともに取り上げるほうがおかしいと言わんばかりの口調だが、社会的にやって善いことと悪いことの自覚のない40-50歳代の前理事たちと同じスタンスでいいのか。彼らの卑劣を批判し、彼らから離れたいとむしろ思う違和感、ないし恐怖感はなかったのか。貴方の正義感はその程度のものなのか。社会人として指導者的立場にあった人の今までの道徳意識が疑わしいものに思われてくる。
 藤岡氏を批判するのと決してレベルを下げずに、八木、新田、渡辺の諸氏は厳しく批判されるべきだというバランス感覚は貴方にはまるきりなく、一方を真黒、他方を真白に描いている。私はそんな描き方はしていない。私は藤岡氏にも厳しい。70歳を越えて、黒か白か、の単純区分けでしか人間を見分けることができない種子島氏はじつに情ない。

3、宮崎事務局長の能力不足、不適格の問題点にはいっさい触れられていない。そもそもこれが発端であったはずだ。しかも問題の最初の提起者が種子島氏自身であったことは前回の日録で私が実証しておいた。いま種子島氏は宮崎氏を合格と見ているが、これは氏のもともとの自説に反する。

4、事務局員の八木支持、全国会員の八木支持の圧倒的優位云々、と氏は言っているが、まず事務局から反八木派二人の事務員は虐められて、追い出された。残った三人の男性は特殊な八木親衛隊である。ファクス通信の不法利用を見れば、分るだろう。全国会員の圧倒的八木支持という話は聞いていない。

5、福地氏が会長補佐を売りこんだと書かれているが、福地氏は種子島氏に呼び出されて会長補佐を頼まれたのが真実という。寝ている時間に電話で起したことは、それは一度くらいあったかもしれないが、生活習慣を知らぬうちの話で、種子島氏がこういう個人的な自分の事情で他人を誹謗するのは見苦しい。

6、八木氏を降ろすための宮崎更迭というような観点が西尾にあったかのごときもの言いをしているが、そもそも私の中にそのような思考はない。第一、八木氏に対して私は敵対感情などをまったく持っていなかった。私は彼を可愛がっていたのである。関係がおかしくなったのは、昨年の11月頃の八木氏の態度変更、遠藤、福田、工藤三氏が八木氏に不信感情をもつようになったときと同時期である。あのころにわかに彼はふてぶてしくなった。礼節を失った。そう思った。聞く処では過去にも八木氏は勤務先で上司に対し類似のトラブルを起こしているという。そういうタイプの人だと私は知らなかったのが不覚。

7、八木氏の中国行きにまったく触れられていないのは種子島氏文書の致命的欠点である。氏は「つくる会」を社会的機能でしか見ていない。あるいは政治的機能もしくは国家的観点で見ることがない。
 種子島君、私は会長になった貴方に、少し大袈裟になるが貴方は日本政治の中枢の一部に触れているのですよ、とくれぐれも「国家」の視点を忘れないで、と言ったことを覚えていますか。
 産経新聞から見捨てられたら教科書の会はつづかない、という一点だけで問題を考えるのではなく、謀略戦相次ぐ国際政治の唯中にある産経新聞、そして「つくる会」のあり方、これを忘れてはいけないという意味である。ときにはつくる会は産経新聞に警告を発し、これをリードするくらいの気概でなければいけない。

8、最後に、どうしても分らないのは、種子島氏には次期会長を誰にするかを皆に諮って決めるのが順当だったのに、どうして自分は全権を委任されていると最初から決めこんでいたのかという点である。この点の謎は前にも問うたが、今度も答えられていない。

 残念ながら「狂乱の春」は「狂乱の文」であった。自分に都合のいいことだけを拾い出して、「呪い」「天動説」などの奇抜な言葉で人を釣り、人を操り、問題の真実から目を外らさせる詐欺師の文章である。
 なによりも自分というものが批判されていない。自分の好都合を述べるだけでは、半面を知る人間からは嘲られるが落ちである。

   ☆    ☆    ☆

●(資料6)藤岡信勝氏の「平成13年共産党離党問題」


4月8日、西尾ブログ「怪メール事件(一)」

 入党や離党が「口頭」でできるものなのか、入離党の規律は90年代には査問もなく、そんなにあっけらかんとしたものになってしまったのか、いまだに私にはよく分からないし、謎である。
(中略)

 藤岡氏から次のような明確な自己説明と状況説明をいただき、曖昧な霧がはれる思いがした。

     ────────────────

4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」

 1ヶ月後の3月初めにさらに何かが起こったようだ。藤岡氏は6日の首都圏支部長会議で「八木氏は日本の宝です」と発言し、周囲をびっくりさせた。5日にはメールの激語が八木氏の家族をおびやかしたからといわれて、菓子折を持って八木氏宅に謝罪に行ったという噂がパッと広がった。鈴木氏がここでも悪い役割(藤岡氏の男の値打ちを下げる)を果たしている。
 あの「怪文書1」、「日本共産党離党H13」のメールがあちこちに撒かれたのは3月初旬の同じ頃である。因果関係は分らない。
  (中略)

藤岡氏にもひとこと、多くの人が口にする正直な疑問を私がいま代弁しておく。共産党離党は平成3年(1991年)であると信じてよいが、それでも常識からみると余りに遅いのである。

     ────────────────

5月2日、西尾氏と私の電話でのやり取り

新田「平成13年離党問題について、藤岡氏の弁明で、本当に先生は納得されたんですか」
西尾氏は「納得しているわけないじゃないか」

新田「それでは、どうして、『明確な自己説明と状況説明をいただき、曖昧な霧が晴れる思いがした』なんて書かれたんですか」
西尾「返す刀で、次に八木を切る必要があったからね」

     ────────────────

5月21日、西尾ブログ「残された謎――種子島氏の変節」

 藤岡氏は2月27日の八木会長解任の前後まで意気盛んで、八木氏と四人組を追放することに自信満々の風があったが、3月初旬から急変して、弱腰になり、八木氏にすり寄りだした。なぜだろう。多分、「怪文書1」(党歴メール)の脅迫効果だろう。本人は証言していないが、私でなくても歴史の記録者は他に理由は考えられないと書くだろう。


   ☆    ☆    ☆

●(資料7)四理事について


1月9日(執行部メーリングリスト)

ことに事務局人事は慣例上、執行部マターであって、採択の谷間で事務局長の更迭が諮られるのはこれまでもおこなわれ、普通のことである。これまで三回、まったくなにも問題はなかった。 今回だけとりたてて問題になるのは、前の三回とちがって、外部の特殊なネットワークの間接干渉があるためと考えられる。会が外部の見えない力の干渉を受けることに私は危機感をおぼえている。外部の力がどこにあるのか、どの国につながっているのかさえも本当にはわからないからである。今まではすべて人間的信頼にもとずいておこなわれてきた。突如として侵入してきた全共闘まがいの言辞に脅威をおぼえるのは私一人ではないはずだ。そうした勢力の排除を会長ならびに副会長諸氏にもとめたい。

     ────────────────

3月7日、西尾ブログ「『つくる会』顛末記 ーお別れに際してー」

四人の中の新田理事は「西尾名誉会長はいかなる資格があってこの場にいるのか。理事ではないではないか」と紋切り型の追及口調で言いました。一体私は好んでつくる会の名誉会長をつとめているとでも思っているのでしょうか。八木会長は彼をたしなめるでも、いさめるでもありません。
 「新人類」の出現です。保守団体のつねで今まで「つくる会」は激しい論争をしても、つねに長幼の序は守られ、礼節は重んじられてきました。とつぜん言葉が通じなくなったと思ったのは、12月12日の四理事の署名した執行部への「抗議声明」です。
   (中略)

 しかも当の宮崎氏は「俺を辞めさせたら全国の神社、全国の日本会議会員がつくる会から手を引く」と威したのでした。私はこれを聴いて、いったん会を脅迫する言葉を吐いた以上、彼には懲戒免職以外ないだろう、と言いました。それが私が会長なら即決する対応です。四人組が彼を背後から声援していることは明かです。
   (中略)

 まず最初に四人組が組織と団結の意志表明としました。全共闘的な圧力で向かってきました。そこで反対側にいるひとびとが結束し、票固めをせざるを得なかったのだと思います。

     ────────────────

4月5日、西尾ブログ「産経新聞への私の対応(四)ー共同謀議の可能性ー」

 八木、新田、内田の三理事が天麩羅屋で共同謀議をしていたか否かについては「つくる会」の理事会に調査権がある。物事を自分に有利に運ぶために報道機関を利用した罪は重く、悪辣であり、調査の結果いかんでは、「つくる会」がの三理事の追放処分が当然の措置となる。

     ────────────────

4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」

 彼らの目的は歴史教科書ではない。政治的支配権そのものが狙いだ。そして、新田氏の早大大学院政治学科の後輩である八木秀次氏は会長である立場を忘れ、昨年10月頃から事実上このグループの一員となって行動している。
 「四人組」は私に言わせれば「つくる会」の一角に取り憑いたガン細胞のようなものであって、放って置けばどんどん増殖するだろう。新しい理事として昔の組織の仲間を多数入れて、やがて八木氏も追い払ってしまうかもしれない。思い切って切除し、今のうちに強権で排除するか、それができなければ会そのものをスクラップにするしか、増殖を阻む手はない。Scrap and build againである。
(中略)

     ────────────────

5月23日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (一)」

 私も藤岡氏からは何度も煮え湯を呑まされています。その個性の特殊性については「怪メール事件(一)」で詳しく分析しておきました。私以外にも、氏に対し好き嫌いのレベルで複雑な思いを抱く人は少なくないでしょう。ですけれども、それはそのレベルです。好き嫌いは誰に対してでもあります。しかし辞任して行った5人の旧「生長の家」系の理事たちや事務局長の排撃意識は、嫌いとか、いやだとか、そういうレベルの感情ではありません。
 もっと根の深い、イデオローギッシュな、組織的な排除衝動でした。目の前から追い払ってしまうまで止まることのない、説明のできない、差別に発した除去本能です。
(中略)

4月30日の理事会録によると、内田智理事は「藤岡理事の言動が会の最大の障害であるとして、藤岡理事を解任すれば種子島会長は辞任を思い留まるのかと質問しました」(FAX通信173号)とあります。これまたもの凄い執念ではありませんか。新田均氏の藤岡批判のあくどい言葉の数々は多くの人々の記憶にあるはずです。いったい彼らの心の奥に何があるのでしょう。

     ────────────────

6月6日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (五)の3」

 四理事抗議文は内田智、新田均、勝岡寛次、松浦光修の四氏連名で出されて、すでに知られた〈コンピュータ問題の再調査は「東京裁判」のごとき茶番だ〉云々といった例の告発状めいた文章のことですが、私はいきなりこれを会議の席で見て、今まで例のないなにかが始まったと直観しました。

 会の中に会派が出来て、一つの要求が出されたのは初めてでした。西部公民グループは「つくる会」の外の勢力でした。『新しい公民教科書』は外の団体への委託でした。内部に一つの囲い込みの「意志」が成立すると、何でもかんでもその「意志」に振り回されてしまいます。これは厄介なことになったと正直このとき以来会の分裂を現実的なことと考えるようになりました。
 「会中の会」が生まれると、会はそれを力で排除しない限り、方向舵を失い、「会中の会」に支配されるか、さもなければ元の会が潰れるかもしくは自爆してしまわない限り、「会中の会」を振り払うことができないものです。イデオロギー集団とはそういうものだと本能的に分っていました。
 さて、今まで隣りにいた四人がにわかに異邦人に見えたときの感覚は、時間が経つうちにますますはっきりし、分裂にいたる事件の流れの果てに、最初の予感の正しかったことが裏づけられました。

 12月の後半から1月にかけて、何が背景にあるのかを事情通に調べてもらいました。私には二人の50歳代の、昭和40年代の保守系学生運動を知る人にご教示いたゞきました。小堀君の先の「学生運動のよしみ」という言葉がヒントになったのです。一人は福田恆存の、もう一人は三島由紀夫の比較的近い所にいた人から聞いたのです。
 そして旧「生長の家」系学生運動があの頃あって、転じて今、「日本青年協議会」や「日本政策研究センター」になっていること、四理事のうち三人と宮崎氏がその運動の参加者で、宮崎氏は三人の先輩格であることを知りました。昭和47-48年くらいのことで、彼らももう若い頃の運動を離れて久しく、元の古巣はなくなっているでしょう。
 政治運動は離合集散をくりかえしますので、小会派の名前や辿った歴史を概略人に教えられましたが、あまりに入り組んでいて、書けば必ず間違える仕組みですので、関心を持たないようにしています。
 「生長の家」という名も、谷口雅春という名も知っていましたが、私はあらゆる宗教の根は同じという万教帰一を説いた世界宗教というような妙な知識しかなく、政治運動もやっていたことは全然知りませんでした。60年安保騒動に反対する積極的役割を果したと後で聴きましたが、私の20代の思い出の中にこの名はありません。皇室尊崇を強く掲げた精神復古運動といわれているようです。
 そういえば、「つくる会」四人の「言い出しっぺ」の一人の高橋史朗氏が旧「生長の家」系でしたから、「つくる会」は最初から四分の一は谷口雅春の魂を抱えていたわけです。それはそれでいっこう構いません。様々な経歴と年齢の人々が集って一つになったのですから、会の内部でお互いに限界を守り、他を犯さずに生きる限り、外で他のどんな組織に属していようが、また過去に属していたとしても、なんら咎め立てするべき性格の問題ではありません。

 しかしながら、今度という今度は少し違うのではないか、と思いだしました。旧「生長の家」を母胎とする「日本青年協議会」、そしてそこを主軸とした神社本庁その他の数多くの宗教団体・政治団体を兼ねた「日本会議」という名の大きな、きわめて漠たる集合体があり、「つくる会」の地方組織の多くが人脈的にそこと重なっているように観察されます。入り混じってはっきり区別がつきません。それだけにかえって危いのです。
 どんな組織も、どんな団体も「独立」が大切なのです。精神の独立が大切で、これをいい加減にすると、精神活動は自由を失い、結局は衰弱していきます。
 協力関係にある限りは自由を失うことにはなりません。協力関係にあることと従属関係にあることとは微妙な一線で、はっきり区別がつかないケースが多く、あるとき甘い協力関係の中で、フト気がつくと自由を失っていることがままあります。人事権が失われていて他に介入されているケースはまさにそれに当るでしょう。しかも介入し侵犯する意識が大きい組織の側にないのが普通です。介入され侵犯された側だけが自由を失った痛みを感じるのです。
 今度のケースがそれでした。1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会のはるか前すなわち12月初旬に、八木氏は旧「生長の家」系の理事たちと事務局長の側にすり寄っていて、会は事実上あのときすでに分裂していました。八木氏の行動のトータルは彼を育てた伊藤哲夫氏の背後からの強いプッシュがあってのことではなかったかと今私は推理しています。

     ────────────────

6月12日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (六)の5」

 責任をとって理事が辞任するのは簡単ですが、辞任すれば会がなくなってしまうので、八木、藤岡、遠藤、福田、工藤、西尾の六人で100万円を罰金として会に支払い、謝罪の意志を表明することとし、宮崎事務局長は次長降格、給与10%3か月分カット、調査中なので当分の間出勤停止という裁定を会は自らに下したのでした。公明さを示すためにこの裁定を「つくる会」支部にも公表すべき、と言ったのは、八木氏と西尾であり、それに反対し、むしろ内々で辞職勧告とするよう慎重な道を選べ、と言ったのは藤岡氏でした。
 しかるに、新田氏らいわゆる四人組は、お前たちは宮崎に責任を押しつける手前、金を払ってごまかすという汚い手を使った、と居丈高に理事会で発言しました。私はこういうコンテクストの中で、こういう理窟を言い立てる人々とはとても席を同じくすることは出来ないと思って、それが辞任に至った直接の原因でした。

     ────────────────

6月13日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (七)の1」

 「つくる会」の出来事を振り返って全体を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれませんが、なにか外からの力が働いたという印象は私だけでなく多くの人が抱いているでしょう。一つには旧「生長の家」系の圧力の介入があった、という推論を先に述べたわけですが、それは今までの仲間との癒着の油断であって、分り易いので目立っただけで、本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません。


   ☆    ☆    ☆

●(資料8)「つくる会」騒動の原因


1月9日(執行部メーリングリスト)

ことに事務局人事は慣例上、執行部マターであって、採択の谷間で事務局長の更迭が諮られるのはこれまでもおこなわれ、普通のことである。これまで三回、まったくなにも問題はなかった。 今回だけとりたてて問題になるのは、前の三回とちがって、外部の特殊なネットワークの間接干渉があるためと考えられる。会が外部の見えない力の干渉を受けることに私は危機感をおぼえている。外部の力がどこにあるのか、どの国につながっているのかさえも本当にはわからないからである。今まではすべて人間的信頼にもとずいておこなわれてきた。突如として侵入してきた全共闘まがいの言辞に脅威をおぼえるのは私一人ではないはずだ。そうした勢力の排除を会長ならびに副会長諸氏にもとめたい。

     ────────────────

2月3日(藤岡氏宛メール)

 わたしが「これから八木コントラ藤岡のはてしない闘争が始まる」といったら、あなたはニヤニヤ笑っていればいいのに、なぜすぐ打ち消したのですか。

     ────────────────

3月7日、西尾ブログ「『つくる会』顛末記 ーお別れに際してー」

 まず最初に四人組が組織と団結の意志表明としました。全共闘的な圧力で向かってきました。そこで反対側にいるひとびとが結束し、票固めをせざるを得なかったのだと思います。

     ────────────────

4年3日、西尾ブログ「産経新聞への私の対応(三)ー『諸君!』などもー」

[『諸君!』の西岡治秀論文の]全体をよく読むと元事務局長の言い分だけを取材した文章であり、「事務局長の資質」「八木会長の指導力」の問題があると指摘しながら、ほとんど掘り下げないで逃げている。この二点こそ今回の事件の核心であるのに、論点をすり替えて、理事たちの心情をあれこれ憶測するだけの無責任な内容になっている。

     ────────────────

4月9日、西尾ブログ「怪メール事件(二)」

会長としての職務放棄と指導力不足、具体的にいえば、長期にわたり理事会を開かず混乱を放置し、唐突な会長声明を出してそれをまた取り消すなど、何をやっているのかといわれるような体たらく振りが理由で、解任されたのに、自分は何も悪いことをしていない、不当な解任だと言いつづけていた。

     ────────────────

4月19日、西尾ブログ「怪メール事件(四)」
 「四人組」は私に言わせれば「つくる会」の一角に取り憑いたガン細胞のようなものであって、放って置けばどんどん増殖するだろう。新しい理事として昔の組織の仲間を多数入れて、やがて八木氏も追い払ってしまうかもしれない。思い切って切除し、今のうちに強権で排除するか、それができなければ会そのものをスクラップにするしか、増殖を阻む手はない。Scrap and build againである。
 私はこの会に「宥和」の政策はもはやあり得ないと考えている。八木氏の代わりに強力な指導者が立って、強権発動して「四人組」を排除してしまう以外に会が救われる道はなく、そのためには現状では同じ方針を公言していた藤岡信勝氏に会長になってもらうのが一番いいと思った。それ以外に方策はないだろう。1月後半から2月にかけて、私だけでは決してなく良識派は他に選択肢はないと認識し、おおむねそういう判断だったといってよい。丁度正論大賞の受賞もきまり、藤岡氏には追い風だった。何で氏が阻まれる理由があろう。
(中略)

余りに乏しい人材が生んだ悲劇である。
(中略)

補記(4月21日)  
 保守思想界にいま二筋の対立する思想の流れがあり、私は早い時期からそれが「近代保守」コントラ「神社右翼」の対立であると公言もし、書きもしてきたが、裏づけがとれなかった。本日コメント欄に出た下記の意見は、私も個人的によく知っている、著作もある若い思想家の分析である。背景の諸事情によく通じている人の見方なので、ここに特別枠で掲示する。
(中略)

Posted by: ストーンヘッジ at 2006年04月20日 22:45
(中略)

 これにより今回の騒動の背景の事情が、ようやくくっきりと浮かび上った。「左」と「右」の対立軸だけで考えて来た戦後思想界に曲り角が来たことを物語る。保守系オピニオン誌も新しい二軸の対立をあらためて意識し、選択する必要が生じ、無差別な野合は許されなくなったというべきだろう。

     ────────────────

5月21日、西尾ブログ「残された謎――種子島氏の変節」

 2月27日に種子島氏を会長に選んだ勢力は、八木氏を解任して会長の座から投票によって降ろしたのとまったく同じ勢力である。だから種子島氏は藤岡、福地両氏を補佐に選んだのだった。だとしたら自分を支持したこの同じ勢力にある程度誠意を見せつづけるなど拘束されるのが常識だろう。ところが、3月に入ると――あの党歴メールが飛び交い、八木氏が産経渡辺記者に見せるなどして触れ回っていたあの時期に――種子島氏はあれよあれよという間に心変わりし、一方から他方へ、自分を支持していた勢力からその反対派へ誰にことわるでもなく変節してしまった。
 ここにどんな怪しげな力が外から働いているのか、本人に聞かなければ分らない。
(中略)

 種子島氏のあれよあれよという間に変わった理解のできない変節と、てこでも動かぬ頑迷振りの背後にはやはり何といっても、説明のできない謎が感じられる。彼は何かを隠している。
 なぜ彼は既往のことは問わずにこれからのことだけを考えようとしきりに言ったのか。何かがあるのではないか。私は多分謎の解明はできないが、現理事のまったく知らない諸状況をこのあと「続・つくる会顛末記」で最終的に証言する。

      ───────────────

5月25日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (二)」
  
 事務局長問題は8月に始まったと前に書きましたが、正式に問題としたのは藤岡氏でもなく、私では勿論なく、種子島副会長(当時)であったことが分ります。
(中略)

      ───────────────

6月3日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (四)の2」

 さて、平成13年の第一回採択戦が敗北に終って、平成17年の第二回採択戦の後とまったく同じように、事務局の改革が自己反省の第一に取り上げられた時期に、事務局長高森氏はあらためて仕事ぶりが問われることになります。
(中略)
 けれども藤岡氏だけは事務局長のやる気、企画力、運動力が問題だと言い出していて、高森氏のやり方にいちいち疑問をぶつけるようになっていました。
 事務局の能率化を唱えている藤岡氏と高森氏の間は間もなく険悪になります。要するに藤岡氏は仕事をテキパキ合理的に推進することを事務局に求め、だらだら無方針で、非能率にやることが許せない性格なのです。他方、私は要するに放任派で、だらしなく、藤岡さんは責任感が強く、厳格だということです。宮崎氏に対したときとまったく同じ状況が生まれました。

      ───────────────

6月4日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (五)の1」

 「つくる会」内紛劇はそれ自体小さな出来事ですが、平成17年(2005年)夏の郵政法案参議院否決による衆議院解散、小泉首相の劇場型選挙とその文化破壊的な帰結とは切り離せない関係にあるように私は考えています。
(中略)

 私と[椛島]氏、もしくは私と日本会議とは仲間なのです。ずーっと私はそう思って来て、仲間だから共通の目的に向かって、協力関係が築けると考えていました。
 日本政策研究センターの伊藤哲夫さんとも永い付き合いで、同じような仲間意識でした。「つくる会」の協力団体である「改善協」の運営委員長を伊藤さんは永年やって下さって、教科書問題に関してもいわば同志でした。
 それどころか平成16年2月に「国家解体阻止宣言」を発表し、われわれは「九段下会議」を建ち上げました。外交・防衛とジェンダー・教育問題との二つのテーマに分け、講師を呼んでレベルの高い勉強会をくりかえした揚句、どうしても政治の世界に訴えたいという思いから、志ある議員を呼んで、情報研究会を創りました。日本政治にインテリジェンスの考えを根づかせるためです。そこの議員連盟会長が衛藤晟一氏、事務局長が城内実氏でした。
 ここまで読んで読者のみなさんはわれわれの間を引き裂く地殻変動を起こしたものが何であったかお気づきになるでしょう。小泉選挙です。

     ────────────────

6月5日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (五)の2」

 もしも小泉選挙がなく、自民党への姿勢において私と伊藤氏との間に考えの開きが大きくなく、度々電話をし合っていた夏までのような仲であったなら、恐らく最初からこんな衝突にはならなかったでしょう。双方に鬱積した感情の澱りがすでにありました。

     ────────────────

6月6日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (五)の3」

 八木、藤岡両氏が椛島有三氏を訪問したのは12月14日です。私が得たのは藤岡氏からの間接情報です。氏の記述によると、椛島氏は「どうか『つくる会』の分裂だけは絶対避けてほしい」とくりかえし言っていたそうで、また同時に、「宮崎氏は人的ネットワークの中心なので断ち切らないでほしい」といい、つまり何とか雇っておいてくれの一点張りで、穏やかな言葉の背後に、強い意志が感じられたそうです。「『つくる会』を自分たちの支部みたいに思っている」という感想を藤岡氏は漏らしていました。

 じつは彼がそう思う根拠が訪問のわずか三日前、12月11日に起こっていました。これが椛島氏サイドからの圧力の結果なのか、伊藤氏のプッシュによるのかは分りませんが、八木氏が11日(日)夜、「処分はすべて凍結、宮崎氏を事務局長に戻し、来年3月までに鈴木氏に移行する。以上の線で収拾することで会長に一任してほしい」と各副会長への緊急通達を出し、執行部管理以来八木氏の命令で自宅待機させられていた宮崎氏を事務所に戻す突然の決定が打ち出されました。
 これに平仄を合わせるかのごとく、12月11日(月)に例の四理事抗議文が出され、一読して衝撃を受けました。しかしこの抗議文と伊藤氏、椛島氏との関係性などは、その時点では、いやそれからしばらくの間もまったく分らず、どこでどうつながっているかは迂闊にも後でだんだん気がつくようになったのでした。
 今思うと八木氏を突然動かしたのは、彼を若いときから育てて来た庇護役の伊藤哲夫氏ではなかったか。八木氏は繁く伊藤氏と電話を交していたからです。これは勿論、私の推理です。しかし他方、四人の抗議文は分りません。15日に宮崎氏は「俺の首を切れば全国の神社がつくる会支援から撤退する」と事務局員たちの前で豪語したと記録にあり、彼はとつぜん強気に転じているのです。
(中略)

 四理事抗議文は内田智、新田均、勝岡寛次、松浦光修の四氏連名で出されて、すでに知られた〈コンピュータ問題の再調査は「東京裁判」のごとき茶番だ〉云々といった例の告発状めいた文章のことですが、私はいきなりこれを会議の席で見て、今まで例のないなにかが始まったと直観しました。

 会の中に会派が出来て、一つの要求が出されたのは初めてでした。西部公民グループは「つくる会」の外の勢力でした。『新しい公民教科書』は外の団体への委託でした。内部に一つの囲い込みの「意志」が成立すると、何でもかんでもその「意志」に振り回されてしまいます。これは厄介なことになったと正直このとき以来会の分裂を現実的なことと考えるようになりました。
 「会中の会」が生まれると、会はそれを力で排除しない限り、方向舵を失い、「会中の会」に支配されるか、さもなければ元の会が潰れるかもしくは自爆してしまわない限り、「会中の会」を振り払うことができないものです。イデオロギー集団とはそういうものだと本能的に分っていました。
 さて、今まで隣りにいた四人がにわかに異邦人に見えたときの感覚は、時間が経つうちにますますはっきりし、分裂にいたる事件の流れの果てに、最初の予感の正しかったことが裏づけられました。

 12月の後半から1月にかけて、何が背景にあるのかを事情通に調べてもらいました。私には二人の50歳代の、昭和40年代の保守系学生運動を知る人にご教示いたゞきました。小堀君の先の「学生運動のよしみ」という言葉がヒントになったのです。一人は福田恆存の、もう一人は三島由紀夫の比較的近い所にいた人から聞いたのです。
 そして旧「生長の家」系学生運動があの頃あって、転じて今、「日本青年協議会」や「日本政策研究センター」になっていること、四理事のうち三人と宮崎氏がその運動の参加者で、宮崎氏は三人の先輩格であることを知りました。昭和47-48年くらいのことで、彼らももう若い頃の運動を離れて久しく、元の古巣はなくなっているでしょう。
 政治運動は離合集散をくりかえしますので、小会派の名前や辿った歴史を概略人に教えられましたが、あまりに入り組んでいて、書けば必ず間違える仕組みですので、関心を持たないようにしています。
 「生長の家」という名も、谷口雅春という名も知っていましたが、私はあらゆる宗教の根は同じという万教帰一を説いた世界宗教というような妙な知識しかなく、政治運動もやっていたことは全然知りませんでした。60年安保騒動に反対する積極的役割を果したと後で聴きましたが、私の20代の思い出の中にこの名はありません。皇室尊崇を強く掲げた精神復古運動といわれているようです。
 そういえば、「つくる会」四人の「言い出しっぺ」の一人の高橋史朗氏が旧「生長の家」系でしたから、「つくる会」は最初から四分の一は谷口雅春の魂を抱えていたわけです。それはそれでいっこう構いません。様々な経歴と年齢の人々が集って一つになったのですから、会の内部でお互いに限界を守り、他を犯さずに生きる限り、外で他のどんな組織に属していようが、また過去に属していたとしても、なんら咎め立てするべき性格の問題ではありません。

 しかしながら、今度という今度は少し違うのではないか、と思いだしました。旧「生長の家」を母胎とする「日本青年協議会」、そしてそこを主軸とした神社本庁その他の数多くの宗教団体・政治団体を兼ねた「日本会議」という名の大きな、きわめて漠たる集合体があり、「つくる会」の地方組織の多くが人脈的にそこと重なっているように観察されます。入り混じってはっきり区別がつきません。それだけにかえって危いのです。
 どんな組織も、どんな団体も「独立」が大切なのです。精神の独立が大切で、これをいい加減にすると、精神活動は自由を失い、結局は衰弱していきます。
 協力関係にある限りは自由を失うことにはなりません。協力関係にあることと従属関係にあることとは微妙な一線で、はっきり区別がつかないケースが多く、あるとき甘い協力関係の中で、フト気がつくと自由を失っていることがままあります。人事権が失われていて他に介入されているケースはまさにそれに当るでしょう。しかも介入し侵犯する意識が大きい組織の側にないのが普通です。介入され侵犯された側だけが自由を失った痛みを感じるのです。
 今度のケースがそれでした。1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会のはるか前すなわち12月初旬に、八木氏は旧「生長の家」系の理事たちと事務局長の側にすり寄っていて、会は事実上あのときすでに分裂していました。八木氏の行動のトータルは彼を育てた伊藤哲夫氏の背後からの強いプッシュがあってのことではなかったかと今私は推理しています。
(中略)

 「自由と民主主義」を脅した小泉選挙の帰結として、「つくる会」の分裂が起こったことは特筆すべき点です。「つくる会」は戦前の体制を理想化し始めた近年の右傾化の価値観からやや距離を保つべきです。どこまでも「自由と民主主義」を小泉型の排他的ファナティシズムから守りつつ、従来の左翼路線をも克服する両睨み、両観念史観批判の方向に教育理念を見出していくべきでしょう。
 分裂は政治史の文脈からみて必然であったというべきなのかもしれません。

     ────────────────

6月12日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (六)の5」

 じつは今のシステムも本当は壊れているのかもしれません。あと何年かは保守すれば何とか使えるということでしょう。システムはどんなシステムでも予想できないトラブルが考えられることは常識です。一番の問題はトラブル発生時の即応体制にあります。そのため平時からの情報監視体制が不可欠です。「つくる会」は「保守体制」がまったくコンピュートロニクス社に丸投げの状況で考慮がなかった。つまり宮崎氏があまりにも安易に考えてきたことが問題です。

 新田氏がブログで「トラブルがないではないか・・・・」と書いているそうですが、こういう指摘は本質ではないのです。いまだにファイルメーカーを基本にしているのですが、ファイルメーカーは専門ソフトであり、その技術者が市場にたくさんいていつでも対応可という状況なら心配もありませんが、すでにマイナーなソフトになってきているのが問題なのです。技術者も減る一方です。それだけに、保守契約は大事な問題でしたが、何度も言いますが、実際には本来の保守契約ではなかった・・・・・これこそが最大の問題です。

     ────────────────

6月13日、西尾ブログ「続・つくる会顛末記 (七)の1」

 「つくる会」の出来事を振り返って全体を判断するにはまだ時間が少なすぎるかもしれませんが、なにか外からの力が働いたという印象は私だけでなく多くの人が抱いているでしょう。一つには旧「生長の家」系の圧力の介入があった、という推論を先に述べたわけですが、それは今までの仲間との癒着の油断であって、分り易いので目立っただけで、本質的な変化を引き起こしている原因ではないかもしれません。
(中略)

 今一番恐ろしいのは、政治家の力量不足を目の前にして、日本の内外で予想もつかない激変が起こることです。
(中略)

 これは70歳を過ぎた私が見ていて、死ぬに死ねない状況です。「新しい歴史教科書をつくる会」は理想を掲げて走りましたが、間に合わなかったのかもしれません。人間が育っていないのです。しかも、会の内部がそれをさらけ出しました。嗤うに嗤えない状況です。


copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。