つくる会の体質を正す会
■注目の種子島経氏の特別寄稿はこちらです。(5月26日掲載)
■騒動の「構図」についての記事はこちらです。(5月10日掲載)
■騒動の「あらすじ」はこちらです。(6月6日掲載)
■「西尾幹二氏の言説の変遷」はこちらです。(6月20日掲載)
■「藤岡氏の八木氏に対する言説の変遷」は、
  (15)(6月14日掲載)、(16)(6月15日掲載)、
  (17)(6月17日掲載)、(18)(6月19日掲載)です。
■「藤岡氏の事務局員に対する文書攻撃」はこちらです。(14)(6月11日掲載)
■西尾氏に対する訂正要求はこちらです。[資料編(1)]
  (5月12日3段目掲載の記事)
■藤岡氏への再質問はこちらです。[顛末記(5)](6月4日掲載)
■鈴木氏の人物については、こちら(5月24日掲載)とこちら(7月5日掲載)です。
■渡辺記者の反論については、こちらです。(5月25日掲載)
■西尾・藤岡両氏の「謀略」の可能性の立証については、こちらです。(7月3日掲載)
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もう一つの「つくる会」顛末記(最終章1)ー内ゲバの論理はこえられるかー
1.高橋和己の思想

「革命を遂行する過程で、圧倒的な敵の包囲の中で不可避的にとられる秘密結社組織や陰謀性も、次の段階では自己否定して組織や指針を公開化し、さらには党派自体を解体してゆくべきであるということも、思念自体としては、否定する人はあまり多くない。しかし、これまでの革命史の現実は遺憾ながらそうではなく、今後も、真にそうありうると思っている人はおそらくはなく、また革命運動それ自体のなかにそうした自己否定、少なくとも自己相対化の要素を導入しようとしている集団はほんどない。」(高橋和己「内ゲバの論理はこえられるか」『わが解体』河出文庫、174頁)

「苦しい変革過程の運動形態のなかに孕まれていなかったいかなるものも、権力奪取後に不意に姿をあらわすことはない。権力奪取後に、自由が制限されるなら、それは運動形態自体のなかにすでに自由はなかったのである。」(同書、215頁)

「現権力者は、あらん限りの悪を、合法性の名のもとに敢えてしている。フェアプレイだけをやっていては、実際の活動は出来ないし、道徳的人気だけでは、権力をくつがえすことはできない。にもかかわらず、未来を担う階級は、やはり、現体制の維持者以上の道徳性をもっていなければならない。/革命を、単なる易姓革命、王朝交替におわらせないために、ある場合には自らを呪縛するように働く、新しい道徳性を、運動の過程それ自体のなかで築いていっていなくてはならないのである。」(同書、216頁)

 上記の文章は、私が学生時代に読んで、赤鉛筆で線を引いていた部分です。私が理想や運動や組織というものを考える時には、常に、高橋和己のこの言葉が一つの基準となっていたように思います。

 西尾幹二氏は、私のことを「全共闘的」と評しました。それは私の理事会における発言を指してのもので、その発言自体が存在しないのですから、その意味ではお門違いです。しかし、私の思想的・行動的あり方の本質的な部分に、高橋和己の影響を感じとっていたのだとしたら、やはり、評論家として天才的な嗅覚をお持ちなのだと認めざるを得ません。

「自らを呪縛するように働く、新しい道徳性を、運動の過程それ自体のなかで築いていかなくてはらない」との思想は、「両刃の剣」です。敵だけを切り捨て、自分には何の危険も与えない「刀」ではありません。その思想が導入されることの危険性をいち早く察知し、恐れ、怒り、あわてふためいた。これが、西尾氏を深層で駆り立てた情念だったように思います。

 創業者の考え一つで昨日までの同志に突然切りつけ、言うことを聞かなければ冤罪をでっち上げて罵倒し、追放する。使用人の分際で主人に逆らうなどとはとんでもない。こうした思考は、「自分達はサヨク以上の道義性をもっていなければならない」と考える私にとって、小さな問題どころか、運動や組織の根幹に関わる問題で、とても受け入れられるものではありませんでした。

 しかし、そうやって、一段高い倫理性を会に求め、内ゲバの論理をこえようとしたことが、かえって、内紛を激化させてしまったという面も否定できません。このことは、どう総括したらいいのでしょうか。


2.士(サムライ)の思想

「『葉隠』にあっては、まず「個」としての武士の完成が要求された。それは「御家を一人して荷ひ申す志」というものを、常に胸のうちに蔵しているような能動的で、自我意識の強烈な「個」としての武士である。そして主君に対する忠誠の問題は、このように完成された「個」としての武士の、主体的で能動的な自己滅却として捉えられていたのである。

 さればこそ、主命への事なかれ主義的な恭順ということは『葉隠』の最も嫌悪するところであった。「事によりては主君の仰付をも、諸人の愛相をも尽くして」、おのれが信ずるままに打ち破って行動せねばならないこともある。畢竟は主君、御家のためを思う心さえ堅固であるならば紛れはないものとする。

 あるいはまた、自己の名誉を侵す者は、たとえ相手が主君であっても、その不当を強く申し立てるべきであるとも主張する。自己の働きに対する評価や行賞が、言われなく過小であると判断したならば、「一入勇み進み候」て、異議を申し立ててこそ鍋島家代々の侍というものだとする。しかるに不当の待遇を受けながら、「面目なき次第」などと頭をかいているような気概のない者では、将来とも役に立つ見込みは望めないのである。

 自己主張の激しい彼らは扱いに面倒で手の焼ける厄介な存在ではあるが、ひとたび主家が困難に直面し、存亡の危機に陥ったときにも、けっしてひるむことなく、保身に走ってその場を逃げ出すということなく、己一人にても御家の危難を救うべく、全身全霊を尽くして困難に立ち向かっていく者たちなのである。「曲者は頼もしき者、頼もしき者は曲者」と述べる所以であり、御家にとって真に役に立つのは、このような者たちであるとされる。」(笠谷和比古『士(サムライ)の思想』岩波書店、85-86頁)

 これは昨年12月15日の八木会長声明が出た頃に、私が八木氏や宮崎氏にファックスした文書です。
 私も「くつる会」がもっと戦える組織になることを望んでいましたが、それは、西尾氏や藤岡氏が考えていたような、上意下達を徹底させて、名誉会長や副会長の意のままに動く組織にし、指示待ち人間を増やす、ということではありませんでした。むしろ、それぞれの理事や事務局員や会員が、自らの見識と誇りにかけて、自己責任で戦う強固な「個」となることを目指す。その強固な「個」の集合体であってはじめて会は戦闘集団たりえる、そう私は考えていました。

 しかし、八木氏や宮崎氏を励まし、ともに戦ってみて分ったことは、私たちが素朴に信頼していた言論人や会員に、実に深く、戦後の「平和思想」「非戦論」が浸透している、ということでした。「言っていることは分かるが、争うのはよくない」「戦えばどっちもどっち、泥仕合だ」「とにかく仲良く」。
 戦後体制の中で、戦いの意味を奪われ、それゆえに、戦いの中で正邪の区別を見極める体験を積むこともなく、ただ「和を以て尊してなす」ことだけを教えられ、それが魂の底にまで染み着いてしまっている。これでは、百戦錬磨の外国と対等にやり合えるわけがありません。
 明治の指導者たちは、外国とやり合う前に、厳しい藩内闘争を勝ち抜いた人々でした。その経験があったから、腹も据わり、外交も上手だったのだろう、とつくづく思います。だから、私たちが戦える組織を目指すなら、内部闘争の肯定的な面をもっと認識すべきでしょう。

 しかし、そうなると、これまた、内紛の連続となることが懸念されます。そうならないためには、どうしたらいいのでしょうか。
 強い自負心と誇りとをもった強固な「個」としての「曲者」。一人でも戦えるだけの覚悟を備えた「士(サムライ)」。その思想を甦えらせつつ、他方で、醜い内紛を防ぐためには、どのようすればいいのでしょうか。


3.天照大神の神格に学ぶ

 「つくる会」は、一芸に秀でた創業者を、あたかもすぐれた日本人の代表のように演出することで、多くの人々の期待を集めて来ました。それで成功したわけですが、やがて、創業者の驕りと、一部の会員による創業者の神格化がはじまり、ついに軌道修正することができませんでした。ここに「つくる会」の悲劇の一つがあったと私は見ています。

 ですから、私たちは、一人一人が誇り高い士(サムライ)となることを目指す一方で、決して、自分が万能ではなく、限られた視野しか持たず、判断を誤る可能性をもっていることを十分意識して、謙虚な心を忘れず、不断に研鑽に努め、神格化されることがないように心がけなければならないと思います。

 これは考えてみれば、日本人にとっては当たり前のことです。なにしろ、最高神の天照大神自身が、最初から完成された神格ではなく、さまざまな失敗体験を経て、徐々に神格を磨かられていった方だったのですから。

 高天原を治めはじめた頃の天照大神は、お別れを言うために高天原に登ってきた弟のスサノオノ尊の心さえ正確に理解できませんでした。そのために、初めは武装して待ち受け、次にスサノオノ尊の心を確かめるために占いをし、占いの結果が出てからはスサノオノ尊の大暴れを抑えることができず、ついに、天岩屋に引きこもってしまいました。
 高天原には、個々の能力においては天照大神をも凌駕する神々がおられましたが、光を与える中心者がいなくなってしまうと困り果て、天照大神に出てきていただくために、天岩屋の前で祭りを行うことにしました。この祭祀によって、天岩屋から引き出された天照大神は、高天原の中心者に相応しい神格へと進化を遂げられたのでした。

ここで再び葦津珍彦氏の文章引用します。
「天照大御神の神話は、全知全能には遠い感じである。弟の「すさのをの命」の意思を誤り解せられたといふやうな話も出て来る。高天ヶ原の神話では、ただ「知」といふことでは「思兼の神」とか、「力」といふ点では「手力男の命」とか、おそらく大御神以上の能力者もあるのではないか。前に大御神が御自ら祭りをされたといったが、おそらく海山、風水を治めたりするには、大御神以上にも能力のある神々があったのではあるまいか。」(『天皇ー昭和から平成へ』143頁)

「天照大御神は、ただ独りの全知全能にして無謬の神ではなかった。高天ヶ原に於ても、御自らよりも、より有能(あるいはよりすぐれた)神を祭り給ひ、多くの有能有力なる神々の存在を認めて、その神々の能力をより高からしめることにつとめられた。」(同書、145頁)

 高天原では、様々な能力を有する神々が、その神々を適所に配置し、その能力をいっそう高めようと努めておられる天照大神を中心として、互いの能力を認め会い、尊敬しあって暮らしておられる。我々の先祖が、そのような世界を理想としたのであれば、私たちもまた、個人として、組織として、どこまでそのような世界をこの地上で実現することができるのか。そのような問題意識で生きた時、内ゲバの論理はこえられるのではないか。私はそう思っています。

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