つくる会の体質を正す会
■注目の種子島経氏の特別寄稿はこちらです。(5月26日掲載)
■騒動の「構図」についての記事はこちらです。(5月10日掲載)
■騒動の「あらすじ」はこちらです。(6月6日掲載)
■「西尾幹二氏の言説の変遷」はこちらです。(6月20日掲載)
■「藤岡氏の八木氏に対する言説の変遷」は、
  (15)(6月14日掲載)、(16)(6月15日掲載)、
  (17)(6月17日掲載)、(18)(6月19日掲載)です。
■「藤岡氏の事務局員に対する文書攻撃」はこちらです。(14)(6月11日掲載)
■西尾氏に対する訂正要求はこちらです。[資料編(1)]
  (5月12日3段目掲載の記事)
■藤岡氏への再質問はこちらです。[顛末記(5)](6月4日掲載)
■鈴木氏の人物については、こちら(5月24日掲載)とこちら(7月5日掲載)です。
■渡辺記者の反論については、こちらです。(5月25日掲載)
■西尾・藤岡両氏の「謀略」の可能性の立証については、こちらです。(7月3日掲載)
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もう一つの「つくる会」顛末記(6)ー騒動のあらすじー
西尾先生が「続・つくる会顛末記(五)の3」で、また私についての虚偽を繰り返しておられましたので、改めて訂正と謝罪を求める一文を西尾先生のブログに書き込みました。それを(補足1)として末尾に追加します。

1の「教科書改訂問題」についても、赤字の部分を追加しました。

 ここまで書いてきて大分話が細かくなってきていますし、途中からこのブログを見るようになった方もおられるでしょうから、一度、ここで「つくる会」騒動のあらすじを整理しておこうと思います。

1.前史としての「教科書改訂問題」

 西尾幹二氏は、「つくる会」名誉会長を辞めた第一の理由として、「旧版『新しい歴史教科書』の重要部分が、改訂版では私に何の断わりもなく岡崎久彦氏(改訂版・監修者)の手で大幅に改筆され、親米的な内容にされたこと」(『サピオ』6月14日号)を上げていますが、その経緯は次のようなものでした。
 改訂作業に岡崎氏に加わってもらうことを主導したのは藤岡信勝氏でした(西岡治秀氏によれば「西尾氏は、今回の歴史教科書の改訂にあたり、そのリライトに加わっていなかった。それは、自らがリライトする気がないと申し出たからという」『諸君!』本年五月号)。
 岡崎氏の改定案の大部分が西尾氏の執筆箇所だったため、扶桑社の編集者は後から問題になることを大変心配し、その旨を藤岡氏に伝えました。すると、藤岡氏が「私が責任をもって西尾さんから了解を取る」と言うので、任せておいたところ、藤岡氏がそれを怠ってしまい、それで西尾氏が「無断で改訂された」と怒り出した、というのが真相のようです。

 その西尾氏の怒りは、岡崎氏が『中央公論』などで「今度の教科書は反米的な面が消えて大変よくなった」旨を書かれたことによって増幅され、理不尽なことに、長年教科書を担当してきた扶桑社の編集者である真部栄一氏へと向かい、次に、採択への影響を考えて、間に入って西尾氏を押さえた宮崎正治事務局長へと振り向けられることになって行きました。

2.宮崎事務局長更迭問題

 昨年9月17日、西尾・藤岡・八木の三氏が、突然、宮崎氏に事務局長辞任をせまるという事態が起きました。その時の、それぞれの人々の考えは以下のようなものだったと考えられます。
 西尾氏「神社・幕屋の関係者では次の採択戦は勝てない。全国の支部幹部の半分は入れ替える必要がある。宮崎は神社・幕屋人脈を代表しているから変える必要がある。」(こう考えて、西尾氏は、八木会長に無断で、勝手に人選を行い、濱田実氏に委嘱してしまいました)。
 藤岡氏「宮崎氏は戦う姿勢に欠ける。静謐な環境で採択を取ろうした扶桑社側の言うことを聞きすぎた(この考えは西尾氏も同じ)。共産党のような戦える組織に改めたい」。
 八木氏「自分には特に不満はないが、創業者二人が強く主張するのだから、宮崎氏には何か問題があるのだろう。それに鈴木尚之氏も『宮崎は事務局員から嫌われている』『若手を育てない』『第一線から引くべきだ』と言っていた」(鈴木氏は、このころ、事務局の若手を飲みに連れ出しては、「宮崎はダメだ」と吹き込んでいました。「今から考えてみると、あの頃からすでに事務局長職を狙っていたんでしょうね」とは八木氏の言葉です。)

 しかし、宮崎氏が「西尾氏の言うような無茶な支部改革は会のためにならない。敗戦の総括を行うまでは事務局長の職に留まるのが、むしろ責任を果たす所以だろう」と考えて即座の辞任を拒否しました。それで、八木氏が、運動強化のために濱田氏を事務局次長に迎え、事務局長人事は今年3月にはっきりさせるという妥協案を出し、一旦この問題は収まりました(ただし、間もなく、濱田氏の力量が露呈し、西尾氏は後悔し、八木氏は彼の事務局長就任に断固反対するという事態になりました)。

3.「コンピューター問題」の捏造

 昨年10月21日、宮崎氏が藤岡副会長との打ち合わせの席で、事務局の丸山女史がコンピューターの不具合を気にしており、それが決着しないと11月に辞めると言っていることを伝えました。
 他方、丸山女史はこれより先、八木会長にコンピューターの不具合について直訴していました。しかし、八木氏が宮崎氏に様子を聞いたところ、「丸山さんが過敏になっているだけで問題はない」とのことだったので、八木氏はそれ以上問題にしませんでした。
 それに不満だった丸山女史は、鈴木氏に相談し、鈴木氏から「藤岡さんに話しなさい」と指示されて、自分の不安を藤岡氏にぶつけたのです。

 話を聞いた藤岡氏は、これを重大視して西尾氏に伝え、それがまた富樫監事に伝えられ、10月28日の執行部会での「事務局再建委員会」「コンピューター問題調査委員会」の設置決定、宮崎氏の出勤停止の決定、11月12日の「調査報告書」「執行部告知」へと展開していきました。この流れに遠藤副会長や高池理事が同調してしまったことによって、“宮崎氏のせいで欠陥ソフトをつかまされ、会は1000万円の損害を被った”という「コンピューター問題」が捏造されてしまいました。
 西尾・藤岡両氏は、これを理由にしての「宮崎処罰、宮崎辞任」というシナリオを描いていたようです。しかし、まず内田理事がその陰謀に気付き、次いで松浦・勝岡氏が気づき、最後に私や高森氏が疑問を呈したことによって、すんなり行くはずだった11月18日の緊急臨時理事会では結論が出す、「コンピューター問題」「宮崎事務局長処分問題」は継続審議となりました。

 すると、西尾氏や藤岡氏らは、自分たちの汚いやり方が逆に問題視されることを恐れたためでしょうか、裏で宮崎氏に辞任を勧告し、藤岡氏を事務局長代行に据えるという挙に出ました。ところが、この処置にまず事務局員たちが猛反発し、ついで宮崎氏が辞任を拒否して事務所に乗り込み、さらに、私たちが会長宛に抗議声明を送るという事態になりました。すると急に、藤岡氏は「会長補佐」というポストを用意して宮崎氏を事務局に戻すことを提案したのでした。

 このような過程の中で創業者の横暴、「コンピューター問題」の捏造に気付いた八木氏は、藤岡提案を受けて、宮崎氏を事務局長に戻し、今年の3月を目途にしっかりと運動の総括を行った上で新体制の人事を行うという案を副会長達に示しました。これを副会長達が了承したことによって、12月15日の「会長声明」が出され、この会長のリーダーシップによって、一連の問題は、理事会内では一旦完全に決着が付いたのでした。

4.「会長声明」無化工作と1月16日理事会での決着

 「会長声明」を出し終えて八木氏が中国へ出かけました。それと入れ違いに海外旅行から帰国した西尾氏は、「これは会長によるクーデターだ! 八木を潰してやる!」と大騒ぎをはじめました(そこには、工藤美代子理事のご主人である加藤康男氏が関与していたことは改めて記します)。すると、西尾氏のなだめ役を買って出ていた藤岡氏は、教科書改訂問題の時と同じようにその任務を果たさず、それどころか、八木追及・宮崎追放の急先鋒へと再び態度を変えてしまいました。この西尾・藤岡両氏に、遠藤・福田・工藤の三副会長が同調したことによって、八木氏は執行部の中で完全に孤立してしまいました。

 この後、執行部内では、12月15日の「会長声明」を修正させ、八木氏を先頭に立てて再び宮崎氏を追及しようとする藤岡・西尾両氏と、それに抵抗して「会長声明」を守ろうとする八木氏の対立が続きました。しかし、最終的には、藤岡・西尾両氏とそれに同調する副会長達に羽交い締めにされて、八木氏は「会長声明」の修正に応じざるをえなくなり、再び事務局長問題を論じることになった本年1月16日の理事会では、藤岡氏作成の「宮崎弁明書への反論」に署名させられた上に、会長としてそれを理事会で読み上げることまで強要されたのでした。

 しかし、八木氏は自分が同意していない文書を読み上げさせられたわけですから、それについての質問を受けると、受け答えがちぐはぐとなり、そこを私たちが追及した結果、この日の理事会では、「コンピューター問題は、せいぜい口頭による注意処分が相当だが、その対象は宮崎氏だけとはかぎらないので、改めて執行部で処分案を考える」「採択戦を振り返って総括を行うための総括委員会を発足させるが、その委員は会長が近日中に指名する」ということで決着しました。つまり、ここでもまた、理事会内の議論によって、「コンピューター問題」「事務局長人事問題」には決着が付けられていたのです。

 したがって、福地惇氏が西尾氏のブログに書いた「1月16日の理事会でも宮崎事務局長問題はまたもや決着の目途すらつかず、激論の末に閉会となった」(「平成18年5月5日付「種子島・八木両氏の『捨て台詞』を追撃する」)という話は全くの虚偽です。この点について、福地氏が事実関係を争うというのであれば、私の手許にある理事会の音声資料を公開しても構いません。

 なお、この理事会の最後では、伊藤哲夫氏から、西尾氏が外部の有力者に「八木は政界進出の野心のために『つくる会』を利用している」と言ったという事実が指摘され、さらに、理事会内部の議論が歪曲されて一部会員に伝えられたりしている事実もあり、「今日のやり取りを持ち出して余計な対立関係を創らないように、切にお願いします」との言葉が八木会長からありました。

5.「宮崎解任・八木おろし」工作

 しかし、この八木氏の「切なるお願い」は、西尾氏によってあっという間に踏みにじられることになりました。理事会決定に不満だった西尾氏は、即座に、名誉会長の辞任を声明し、表では完全に「つくる会」から手を引くと言いながら、裏では、全国の支部長達に電話で八木氏や私たちの悪口を言い触らし、富樫氏と組んで理事会の資料を理事会外に持ち出して一部の会員に一方的な情報を流し、さらに、藤岡氏には会長になれとけしかけ、三副会長や福地氏にその応援を依頼する、という行為に出ました。
 今考えてみると、名誉会長の辞任は、理事会の外に出て自由にものが言えるようにし、会員の同情を引いて自分の意見が通りやすくするための高等戦術だったのだと思います。

 さて、この西尾氏の煽動に同調するかのように三副会長が辞任を表明し、さらに、1月16日の理事会決定を実行しようとする八木氏の足を藤岡氏が「宮崎辞任」を求めて引っ張り続け、その上、八木氏が当てにしていた鈴木尚之氏が藤岡氏に同調し、外では八木訪中を持ち出して騒ぎ始める会員が現れ、理事会内では田久保忠衛氏までが八木氏の指導力や訪中を追及するという状況になり、ついに2月27日の理事会で、宮崎氏も八木氏も解任されてしまったのでした。

 この時、西尾氏が採った「理事会で正式決定した結論を、被害者を演じて外に持ち出したり、拡大したりして、ひっくり返すという戦術」は、この前にも後にも、彼らが使い続けた常套手段でした。

6.西尾・藤岡両氏の誤算=種子島氏

 私たちが、「もう西尾・藤岡両氏と一緒に運動はできない」と考えて、本当に団結したのは、この八木・宮崎解任劇の後からでした。ただ、「つくる会」は日本にとって大切な組織だという思いは強くありましたし、会員に対する責任も感じていましたので、「会に残って改革の努力をする方がいいのか、それとも、出ていく方がいいのか。軽々しく動かずに、それをしばらく見極めてみよう」と考えていました。

 そんな時、新しく会長になった種子島氏から八木氏に「会長復帰の打診」が来たのです。種子島氏は、(おそらく西尾氏の意向を受けた)田久保氏の推薦によって会長になられたわけですが、本当に私心なく会の行く末を考えた末、八木氏でなければ会の未来はなく、「コンピューター問題」は冤罪であり、内紛の原因は八木氏のリーダーシップの欠如ではなく、西尾・藤岡両氏の行為にあった、という結論に達したというのです。

 そこで、八木氏は、たとえ自分が復帰しても、西尾・藤岡氏の影響下では会に未来はなく、そのためにも宮崎氏の協力が必要だと、種子島氏に説きました。その基本認識を種子島氏と共有できたので、八木氏は会長復帰に同意し、後は、スムーズに八木新体制に移行できる方法を一緒に考え行こうということになったのです。そのソフトランディングの観点から、田久保氏や遠藤氏の顔を立てて、八木氏は先ずは(7月理事会での会長復帰を前提として)副会長に就任し、宮崎氏については様子を見て復帰の方法を考えるということになりました。こうして、3月28日理事会での八木氏の副会長就任が実現したのです。

7.種子島会長・八木副会長の辞任

 ところが、この八木氏の7月会長就任という結論を快く思わず、これまでの自分の所業を考えれば、やがて敬遠されることになるだろうと予想した藤岡氏は、まず3月29日の産経新聞の記事を利用して、再び「八木降ろし」をはじめました。
 それに追い打ちをかけたのが、西尾氏によるブログを利用した「出所不明情報」の事件化工作でした。藤岡氏の共産党離党が実は平成13年だったとする情報に最初に飛びついて大騒ぎし、問題を拡大したのは西尾氏だったのですが、途中からそれを打ち消して、「出所は八木氏だった」と言い出して、「八木降ろし」に利用しはじめたのです。

 5月2日に西尾氏から電話をいただいた時に、私は「平成13年離党問題について、藤岡氏の弁明で、本当に先生は納得されたんですか」と聞いたところ、西尾氏は「納得しているわけないじゃないか」と言われたので、「それでは、どうして、『明確な自己説明と状況説明をいただき、曖昧な霧が晴れる思いがした』なんて書かれたんですか」と重ねて問うと、「返す刀で、次に八木を切る必要があったからね」と平然と言われたので、私は二の句が付けませんでした。

 この西尾氏の戦略に藤岡氏が同調して騒ぎはじめました。どこまでの範囲で出回ったのかも分からない、藤岡夫人の父親が熱心な共産党員だっとする文書を「家族への侮辱は許せない」(4月21日)と題してブログに掲示し、全世界の人々の目にさらして、同情を引くとともに、八木氏への不信を掻き立てる、という捨て身の戦法に出たのです。この戦法に、まんまと引っかかったのが、最初は八木追及、次に藤岡追及、そしてまた八木追及と、コロコロと立場を変えた挙げ句、最後に藤岡氏の同志となった福地惇氏でした。

 4月30日の理事会では、八木氏追及側に、最終的に八木氏を見限って藤岡氏についた鈴木氏が加わり、さらに、内々に会った時には「君、そんなひどい目にあってたの、そりゃたまらんな」と八木氏に同情を示し、「西尾は愉快犯だよ」「ありゃ、狂ってる、もうお手上げだ」「藤岡は人間の顔をしてなかった」「世間から見れば、あの二人が問題なのははっきりしている」などと言っておられながら、理事会の席になると、何故か彼らの肩を持つ田久保氏が加わりました。

 種子島会長は理事をマネージメントできないことを理由に辞意を表明し、「藤岡氏が辞任するなら会長に留まってもいい」と述べましたが、藤岡氏はそれを拒否し、他の理事からも種子島氏に対する慰留や藤岡氏への辞任勧告はなく、この状況では、もはや、この会に再生の望みはないと考えて、私たちも、種子島・八木両氏とともに辞意を表明して、理事会を退席したのでした。

(補足1)
新田均です。
【1月16日、私に対し「あなたはなぜここにいる」の新田発言の出る理事会】
この記述の証拠をお示し下さい。「つくる会」には録音があるはずですから、簡単なことでしょう。
もしも、証拠が提示できないのならば、訂正と謝罪を要求します。




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