つくる会の体質を正す会
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■騒動の「あらすじ」はこちらです。(6月6日掲載)
■「西尾幹二氏の言説の変遷」はこちらです。(6月20日掲載)
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  (15)(6月14日掲載)、(16)(6月15日掲載)、
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「つくる会」の逝きし日々(3) 奇跡の夏ー全国初の採択と民団の来襲
            松浦光修


「ここで問題です。扶桑社の歴史・公民教科書を、全国で初めて『うちの学校で採択する』と宣言した普通中学とは…、さて、どこでしょう?」。こんな質問をされたら、今の「つくる会」の役員や会員で、はたして何人が正解できるであろう?。ほとんどの人は忘れているにちがいない。正解は津田学園中学…、三重県の桑名市にある私立中学である。

時は、平成13年の春にさかのぼる。4月3日の夕、『新しい歴史教科書』と『新しい公民教科書』が教科書検定に合格した、とのニュースが流れた。たまたま私はそのニュースを伊勢市内の、あるラーメン屋で見ていたのだが、喜びのあまり思わず椅子から立ち上がって、テレビに近寄った覚えがある。ところが、そのニュースを見たラーメン屋の夫婦は、小さな声で、たぶん「なんでや…」とつぶやいたのである。そして、なんだか苦虫を噛み潰したような顔になった。その時は、ただ少し気になっただけであったが、あとで噂に聞いたところによれば、その夫婦は「元(今も?)左翼」であるという。
なぜか三重県は、人口のわりに、いたるところに左翼がいる。ちなみに私は、その噂を聞いたあとは、その店では決してラーメンを食べるまいと堅く心に誓い、いまだにその誓いを守りつづけている(私は律儀なタイプである…)。

なぜ三重県には、いたるところに左翼がいるのか?。周知のとおり三重県は「98パーセント」という日本一の驚異的な組織率をもつ「日教組王国」であるが、それは、おそらくそのせいにちがいない。だから三重県の公立学校では、ほぼ全県下で、この数十年来「反日教育」が、ごく当たり前のように行われてきた。「ふつうの市民が左翼」でも…不思議はないのである。

という次第であるから、三重県での扶桑社の教科書採択は、はじめから、ほぼ絶望的であった。当然のことながら私は、「ならば私立しか、採択の可能性はないではないか…」と考え、地道な「お願い活動」をつづけていた。むろん一応、公立での採択も、いろいろと働きかけてはいた。ある時は、県会議員に同道してもらって伊勢市の教育長と面談し、そのあとで略式の記者会見を開いたこともある。
 しかし、あくまでも私は、「他の都道府県は知らず、三重県では、私立の普通中学で複数の採択を取れれば上々…」と考えていた。「状況は、それだけ厳しい」と見ていたのである。この点、「つくる会」理事会の見通しは、なぜか前回も今回も甘かつた。要するに「今の現場を知らない」からであろう。

さて、そうこうしているうちに、平成13年も6月となったが、その16日、ついに待ちに待った第一報が入った。桑名市の津田学園中学が扶桑社の教科書を採択することを決定したと、『中日新聞』が報じたのである。普通中学では、全国初の採択で、快挙である。次いで6月18日、『毎日新聞』が、わが学園の一角をなす皇學館中学も「採択の方向で検討中」と報じた。
私は大学の仕事で、毎年6月ごろは、東海地方の学校現場を回っていることが多い。私が、皇學館中学についての報せを受けたのは、ちょうど岐阜県の、ある高校近くの小さな駅に一人ぼんやりと佇んでいた時で、「これでなんとか、最低限の面目は、ほどこすことができたな」と、安堵したものである。

しかし、その喜びもつかのまで、それからが大騒ぎであった。津田学園中学にも、わが皇學館中学にも、「大韓民国民団」から、ほとんど暴力的ともいえる圧力がかかってきたのである。
まず6月16日、彼らは突如、マスコミをひきつれて、津田学園中学に押し かけ、授業中にもかかわらず、ハンドマイクで抗議文を読み上げた。その様子はテレビでも新聞でも報道された。津田学園にしてみれば「ふいうち」であったらしい。それにもかかわらず、マスコミは津田学園側に不利な報道をした。

その騒ぎのようすを私は、たまたま夕方のテレビニュースで見ていた。「これは、いずれうちにも来るな…」と、腹をくくった。
問題は、「いつ来るのか?」である。なにしろ彼らは、「ふいうち」を常套手段とする。まるで「授業中」の教職員や生徒が精神的に動揺するのを楽しんでいるかのように…。これは「世評」に弱い「私立中学」の弱みを、知りぬいた作戦といってよい。
しかし、ありがたいことに、私には事前に情報が入っていた。じつは彼らは、まず「味方のマスコミ」に「来襲」を予告する。マスコミを引き連れてくれば、彼らの「世論へのアピール」という(じつは、これが第一の)意図が達せられるからである。しかし、その「味方のマスコミ」から回りまわって、「来襲」の前日の夕方、私の耳に「彼らは明日の午後、確かに皇學館中学に行く」という情報が入ったのである。

7月10日、真夏の昼下がりのことであった。私は、中学の校門から道一つ隔てた向いの草むらに、スーパーで買ったパイプ椅子を置き、一人扇子を使いながら、彼らが来るのを待った。扇子は乃木神社でもらったもので、乃木大将の有名な「もののふは…」の和歌が記されていた。「さて、右から来るのか、左から来るのか?」、どこから来るのか、そこまではわからなかつたので、校門の向かいに座って、どちらから来ても対応できるよう、じっと、アホのように座っていたのである。
 話を聞きつけた何人かの学生が、「先生、一緒に戦います」などと悲壮な顔をして来たが、私は「学生さんは遠くから見物していなさい」と言って追い返した。やがて情報どおり、民団は大挙してやってきたのであるが、私たちが、彼らにどう対処したか?。詳しくは、拙著『いいかげんにしろ日教組』(PHP研究所・平成15年)に譲る…。
 なお、この時、皇學館中学の教頭として、動じることなく彼らとの対応に当たってくださったのが山下久樹氏であった。残念なことに山下氏は、平成17 年2月25日、まだ52歳という若さで病没されている。

 あのころの、こういう「戦いの記憶」なら、私にはいくらでもある。そしてそこには、いつも様々な方々のありがたい支えがあった。ふつうの者なら、それらの「戦いの記憶」をたぐるたび、そういう方々への感謝の思いが心に満ちるはずである。半年前、私は、そういう方々の思いを背負って理事として理事会に望もう、との思いで東京まで出かけた。

 すると、いきなり最初の理事会で、西尾幹二氏は私の面前で、こう発言したのである。「地方の理事は、交通費がかかるから、いらないんだよね」。その時、出席していた「地方の理事」は、私一人であった。忙しい本務の合間をぬって、四時間もかけて私が会議に出席していることを知っていながら、最初の言葉が、なんとそれである。

 ふつうは「遠いところ、どうも…」の一言くらいはありそうなものであるが、そんな言葉は、昔からいる理事の誰からも、ついに一言も発せられなかった。すでに私はその時、「なんか、お呼びじゃないみたいだし、理事とか…引き受けるんじゃなかったなぁ」と後悔したものである。しかし、保守の世界には、そういう「ふつう」ではない人々が、じつは多数生息しているらしい。そのことを、骨身にしみて理解できたというだけでも、この半年の私の「理事体験」は無駄ではなかったかもしれない。

 ともあれ平成13年当時は、たった私立中学一校の採択を取ることでさえ、現場では、これほどの圧力と戦わなければならなかった、ということである。しかも、そんな戦いを「自分の日常生活の場」でやるということが、どれほどの気苦労をともなうものなのか、これは、やった経験のある者にしかわかるまい。
 もっとも、この程度の体験なら、地方の現場で奮闘されてきた方々なら、いくらでもお持ちであろう。もっていないのは、本部の理事たちくらいかもしれない。

 藤岡氏を除いて、採択の現場で指揮をした経験のある理事は、ほとんどいまい。しかし、かりにそういう経験を持っていたとしても、「自分の日常生活の場」以外の場所に、時々出かけて、勇ましげに騒ぎ立てるだけのことなら、じつはそれほど難しいことではない。偉そうなことを言う方々に、ぜひ言っておきたいのは、「自分の日常生活の場」で採択戦をやってみてください、ということである。「そんなリスクは負いたくない」というのであれば、そんな人に「保身に走る教育委員」を責める資格などあるまい。

 結果的に平成13年の第一回の採択戦では、公立の普通中学での『新しい歴史教科書』・『新しい公民教科書』の採択は、「ゼロ」に終わった。全国で一校もとれなかったのである。そんな悲惨な状況の中にあって、三重県は私立二校の採択を勝ち取ったのであるから、普通中学では、なんと全国最高の採択率という結果になった。「日教組王国で奇跡が起きた」と…、そのころの私たちは、ずいぶんと喜んだものである。

 以上は私の小さな経験の、さらに小さなひとコマにすぎない。しかし、その小さな経験があるからこそ、私は全国各地の同志の方々が、扶桑社の教科書の採択のため、どれほどの苦難と、また悔しい思いを味わってこられたのか、想像くらいはつく。つまり、「つくる会」と扶桑社の教科書には、すでに全国の同志の方々の、はかりしれない汗と涙とが染み込んでいるのである。そうであるにもかかわらず、いつまでたっても、「これはオレの会だ」とか「これはオレの教科書だ」とか、また「これはアノ先生の会だ」とか「これはアノ先生の教科書だ」とか…、そんな「私」にとらわれた発想から逃れられない人が、いまだに少なくない。

 それらすべての人々は、私には、まことに「バチあたり」な人々としか見えないのであるが、その「勘違い」に彼らは永遠に気づくまい。気づかせようとする親切な人は、みな逆に憎まれ、「呪われ」てしまうからである。
もしかしたら、そういう人たちは、いい年をして、「感謝」という言葉を、本当はまだ「実感」したことがないのかもしれない。「感謝できるのは強い人」(河合隼雄)というのは、なるほど名言である。

 理事たちとの飲み会に、私も何度か出席したことがある。ところが、印象に残っているのは、西尾氏が頭から湯気を出さんばかりの勢いで、あるいは藤岡氏が目を三角にせんばかりの勢いで、いずれも怒っている情景ばかりである。しかも、お二方とも好物の「つまみ」は、なによりも「人の悪口」らしい…。
 あんな「呪いの宴」のようなものに、もう二度と出席しなくてもよくなった、というだけでも私は幸せ者であると、今は神に「感謝」している。(平成18年5月29日記す)。
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