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つくる会の体質を正す会
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■騒動の「構図」についての記事はこちらです。(5月10日掲載)
■騒動の「あらすじ」はこちらです。(6月6日掲載)
■「西尾幹二氏の言説の変遷」はこちらです。(6月20日掲載)
■「藤岡氏の八木氏に対する言説の変遷」は、
  (15)(6月14日掲載)、(16)(6月15日掲載)、
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■「藤岡氏の事務局員に対する文書攻撃」はこちらです。(14)(6月11日掲載)
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  (5月12日3段目掲載の記事)
■藤岡氏への再質問はこちらです。[顛末記(5)](6月4日掲載)
■鈴木氏の人物については、こちら(5月24日掲載)とこちら(7月5日掲載)です。
■渡辺記者の反論については、こちらです。(5月25日掲載)
■西尾・藤岡両氏の「謀略」の可能性の立証については、こちらです。(7月3日掲載)
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狂乱の春—「つくる会」会長職2ヶ月   種子島 経
 私はもう半ば世捨て人の身である。毀誉褒貶を気にすることもないし、弁解じみたことは大嫌いだ。ただ、今回、2月末「つくる会」会長職に就任しながら、たった2ヶ月で放り出した事態については、特に私を支持して下さった支部、会員の方々に対して、おわびを申したいし、一言説明をしたいものだ、と考えていた。
 幸いにしてこのような場を与えられたので、私の立場からたんたんと客観的に説明責任を果たすことにしたい。

1.まったく「想定外」だった就任

 昨年、満70歳を迎えるに当たって、私は新しい人生を歩み直すことを決めた。どうしても好きになれない首都圏を脱出して、大好きな兵庫県明石市の海辺へ引っ込もう、というのである。
 ボランティア活動整理の一環として、昨年9月の総会で「つくる会」副会長を辞任した。副会長時代には、毎週一度は事務所へ顔を出して、主として宮崎事務局長の話し相手を勤めていたのだが、その後は事務所へ行くことも一切せず、理事会もさぼり続けた。どうせ適当な時期に理事も辞めるつもりだったし、八木会長以下の若い体制で進もうとしているのに、年寄りが口を出すこともなかろうと考えたからだ。
 だから、それ以前の「会」の事情については比較的よく知っていたのだが、今回問題となった昨年9月以降の紛糾に関してはまったく知らないまま、ニュートラルコーナーでのんびりしていたのだった。

 2月27日理事会、私はこれで理事会も打ち止めとし、3月早々関西へ移動するつもりでの出席だった。ところが、ご存知のような推移で、八木会長、藤岡副会長、宮崎事務局長と執行部全員が辞任、というとんでもない事態になった。私は、後で述べるように、どちらかといえば従来藤岡氏に近く、その夜の票決では八木会長解任に一票を投じた一人であったことを告白しておく。
 混乱の中で、田久保忠衛理事が私を会長に推され、それが通って終った。先に述べたことから明らかなように、私としてはまったく「想定外」の意外きわまる展開だった。ニュートラルコーナーで眠っていた私以外には、みんなの賛同を得られる候補者がなかったのだろう。
 戸惑いながらも私が受諾したのは、もし私が拒否すれば「会」は会長不在となり、崩壊しかねないからである。創立以来の会員であり、長年、理事、副会長などを勤めて来た身として、また会員各位への責任上も、それだけは避けたかったのである。

 ただし、私は咄嗟に、二つの点について理事諸君の確認を求めていた。
第一に、私の就任については理事全員が支持してくれること、である。八木支持派の諸君には若干のためらいも見られたが、表立って反対を表明した人はいなかった。彼等としても他の選択枝はなかったのだろうし、他方私としては理事間の反対を押し切ってまで引き受ける理由はなかったからである。
第二に、副会長選任などの人事に関しては私に一任してくれること、である。これについても異論はなかった。
 私としてはこの二点を押さえた上での就任だったのである。これを無視、蹂躙されるという、会社人間、組織人として四〇年来過ごしてきた人間として信じられない反乱行為続発が、私の辞任につながって行くことは、以下追々と見て行く通りである。

 この夜、私は都内に一泊して、鈴木事務局長代行などと今後の進め方を考えて過ごしたのだった。
 翌朝、千葉市の家で私を迎えた妻は、いきなり仏頂面だった。私の身辺保護に当たってくれている千葉県警から電話で、
「おめでとうございます」
「一体なんのお話でしょう?」
「つくる会の会長に就任されたそうで」
「そんなはずはありません」
と頑張る妻に見せるべく、千葉県警はわざわざそれを報ずる産経新聞のコピーを届けてくれたのだった。
 我が家では長年、産経、日経の2紙を購読していたのだが、昨年、ふとしたことから前者をとめていたのである。

 彼女にしてみれば、私の動静を私の口からではなくてお巡りさんに知らされたのがまず面白くなかったのだろう。私以上に明石隠遁を希望しているだけに、それが無期限延期になりかねないのも不快だったに違いない。隠遁に備えて、テレビ、パソコンを買い換え、本棚を買い増し、と年金生活者にとってはかなりの投資を完了したばかりだったのも、財布を預かる主婦として不本意だったろう。
 親父の突飛な行動に慣れ親しんで来た子供たちは、「またか」という表情だった。私の会長就任は我が家でも全然想定外の歓迎されない事態だったのである。

2.西尾幹二さんの電話、会長補佐、模索の日々

 西尾さんとは大学教養学部以来50年以上の間柄だが、電話で話すことは滅多にない。同じ日本で暮らしていても、二人の間には時差が存在するからである。
 退職後の私は毎朝4時過ぎに起床し、阪神タイガースのテレビ中継でもない限り19時には就寝する。対する彼は昼前に起き出し、夜中から夜明けがたにかけて、ウイスキー片手に、電話をかけまくる習いである。
だが、この日の電話は、私の時間帯に配慮してお昼過ぎだった。
「ご苦労だが、2,3年やって、福地さんに譲るんだな」

 私は、後で述べる理由から、短期リリーフを決意していたので、2,3年もやる気はないこと、福地さんは私が副会長を辞めた昨年9月理事に就任された方で全然存じ上げないから、会長候補の一人として考えること、を答えた。彼の人選にはたまに全然ピント外れのものもあり、こんなことで彼の意見を鵜呑みにするつもりはなかったのである。
 別途、二度まで「会」との絶縁を宣言している人が、その会長人事に言及するなど、遠慮すべきことをメールしておいた。「会」の人事は公事であって、友情を絡ませてはならない、と考えたからである。

 やがて、藤岡、福地の両氏が、「会長補佐」として私を助けたい旨売り込んで来られ、私は有難くお受けした。一人ではどうにもならないことはよくわかっている。

 創業者の一人たる藤岡さんとは西尾さんとに次ぐ長いつきあいでもある。もう10年近く以前、まだ「会」の理事になってない頃、自由史観研究会のボランティア活動に参加したことがある。中国系アメリカ人、アイリス・チャンの“Rape of Nanking”が英語圏諸国でベストセラーになり、日本語訳出現に備えて同会が準備をするには全編日本語訳が必要、とのことで、退職ビジネスマン中心の7名でそれをやったのである。お礼の意味で本郷の学士会館別館で彼に接待されたものだ。続いて、この7名が、同会のホームページで、欧米諸国の新聞、雑誌から日本関係の記事をピックアップし、それに簡単なコメントを付けるコラムを暫くやったのだった。これに対しては彼のご自宅でご馳走になっている。

 さて、会長にはなったもののなにしろ私は全然「会」の事情に暗いままだし、福地さんもそうだ。だから、この後、暫くの間、万事藤岡さんの采配で動いた。私は彼の傀儡と見られ、彼自身もそう考えていたようだった。
 私はまず福地さんを知ることに努めた。何回か話し、一杯飲んだ結果、彼は会長には不適、と西尾さんに反する結論に達した。ストレートな性格の快男児だが、一つの考えで猛進するだけ、相手の立場を考えることを知らない。だからマネージメントということができず、組織の長にすれば組織も自分も不幸にするだけである。共に一杯やるのは愉快だが、共に仕事はできない友は会社でも多かったが、彼もそんな一人だった。学者としてはこれでも差し支えないのだろうが。
 彼は、私が寝ている時、妻に強要して、大して大事でも緊急でもない電話を取り次がせる、という、かの西尾さんですら遠慮していることを2ヶ月の間に数度敢行しており、こんな点からもマネージメント不適をうかがわせたのだった。

 当初、藤岡さんに会長をやってもらうのが一番、と考えていた。創業者の一人で教科書問題のプロ、知名度も高い。だが、後に述べる諸会合などを共にしながら語るうち、「やはり駄目だな」と思わざるをえなかった。
 ガリレオ・ガリレイ以前の天動説論者、自分が宇宙の中心で、その周りを万物が回ると思い込んでいる。自分以外のルールなど一切認めず、すべては自分のため、と考え、それを邪魔しそうな者に対しては全身全霊で呪いを吹っかけて、抹消し去ろうとする。「会」もそんな自分の方便として考えているに過ぎず、「会」の歴史をどす黒く染め上げている内紛史も、要はそんな彼の呪いの歴史なのだ。彼を長にしたのでは、「会」は間違いなく潰れる。

 実は私が就任後直ちに決心したのは、なるべく早いとこ退任して後任に譲ること、だった。私は会長として不適格であり、そんな私が会長を勤めれば、「会」は駄目になる。
 第一に、3年後の採択に向かって国民運動を展開して行くのが「会」の最大の仕事だが、私にはそれを率いるノウハウが乏しい。第二に、その間、数々の文化活動で認知度を上げ、会員獲得に努めるべきだが、私はそんな文化人でもない。第三に、「会」は、フジサンケイグループ、日本会議など多くの支援団体に支えられているのだが、私はこれらの団体での人脈を欠く。第四に、「会」は西尾さんの「国民の歴史」を掲げて登場したのであり、会長たる者、一つの理念をもってリードすべきなのだが、私にはそれもできない。更に、糖尿病と高血圧を抱え、同じ病気の実弟が昨年脳溢血でみまかっており、いつこの病気に突然やられるかわからない以上、長く勤めるなら任期半ばにして病に倒れ、皆さんに迷惑をかけることになりやすい。

 かくて後継者選びが急務だったのだが、西尾さん推薦の福地さんも私が当てにしていた藤岡さんも駄目となると、「さて、誰にするか?」と改めて考えざるをえないのだった。
 そんな中で、私と会長補佐2名に鈴木事務局長代行が加わった4名で、次の日程をこなして行った。

3月6日(月)東京・関東ブロック会、
  8日(水)大阪ブロック会
  9日(木)九州ブロック会
  11日(土)~12日(日)支部長・評議会合同部会

 これらの諸会合の議事などについてはすでに報じられていること多いから省略する。実は私は、支持者たちの忌憚のないご意見を聞きながら、後任会長問題を最優先で考え続けていた。
 昨年9月以来の紛争で世論に見放された感のある以上、外部からの招聘は無理で、理事の一人にお願いするしかなかろう。会議の席上、みなさんの議論を聞きながら、あるいはホテルのベッドの上で、理事諸君一人々の顔を思い浮かべながら、私は考え、「八木さんしかいない」という結論に達しかけた。だが待てよ、彼こそ、昨年9月以降の内紛を解決できないまま放置して今日の体たらくを招いた張本人ではなかったか。私自身先の理事会で、その「マネージメント責任」を問うて解任決議に一票を投じている。

 私は、昨年9月以来という私にとっての空白地帯に関して、当事者に聞き、私自身考えることを始めた。その結果私なりに理解できたのだが、ここでも実は藤岡さんの呪いだったのだ。彼が年若いライバル八木さん追い落としを画策し、それに西尾さんが乗った。
 この二人はいずれ劣らぬ自分中心の天動説論者で、宿命的に仲が悪いのだが、ただ、誰かを呪い潰そう、という際にだけ共同戦線を組むこともある。
いうなれば呪い仲間である。「会」の歴史の中で、その例はあちこちに散見している。宮崎問題も、八木さんを追い詰めるための方便に過ぎず、その中心だった会員管理プログラム問題が嘘の皮だったことは、それが今日も無事稼働しており、それが藤岡さんの知り合いの方に、月20,000円でメンテナンスされていることからも自明である。

 八木さんの決断が遅れたのは、この大姑、小姑に上と下からいびり倒されていたからで、こんな状態では誰だってマネージメント不能に陥る。適例は事務局次長任命だろう。宮崎問題の中、西尾名誉会長は、自身出向いて某氏を事務局長含みの事務局次長を任命、給与なども決定の上、それを会長に通知した、という。こんなことでは会長の人事権など皆無ではないか。であるならば、こんな大姑、小姑要因がないなら、八木会長は立派に機能するし、それがベストだ。

 私はまた、会長補佐ご両名と一緒に、事務局スタッフ6名のヒアリングを行った。会長補佐への遠慮から遠回しな表現が多かったが、それでも、西尾さんが雇った次長を除いた5名全員、絶対的な八木支持、反藤岡であることがわかった。
 彼等は、「会」の大義を奉じて全国から馳せ参じてくれた志の持ち主たちである。その高い知性に比べればお話にもならない低い給与で献身的に働いてくれている。そんな彼等の総意を私は重く受け止めざるをえなかった。八木さんの会長復帰は正しい、と改めて信じ、藤岡さんを見放したのだった。
問題は、今までのいきさつからして、藤岡さん以下の面々がそれを認めるか、もし認めてくれたにしても肝心の八木さんが受けるか、である。

 東京から新大阪へ、新大阪から博多へ、ブロック会のために新幹線で移動する車中、私は藤岡さんと語り続けた。「3月末の理事会で副会長就任、7月の総会で会長に復帰してもらう」という線で協力を求めたのである。鈴木さんが横でジッと聞いていた。
 各地のブロック会であからさまに指弾を繰り返されて、自信をなくしておられたこともあったのだろう。彼は納得してくれた。ブロック会でも八木さん支持が圧倒的で、これも私の気持ちを固めることになり、帰京後、彼との会談に臨んだ。

 昨年9月以来のいびりで散々に傷ついた挙げ句解任の憂き目にあった彼のこととて、簡単に承知しようはずもなかったのだが、何度か話しを積み重ねて、なんとか合意に達することができた。彼は、当初私を藤岡派の一人であるおかしな老人と見て全然信用していなかったのだが、なんとか信頼関係を樹立することができたのである。「会」の大義などとはなんの関係もない、程度の低い呪いの中で散々振り回されただけに、彼もかなりの人間不信に陥っていたようだった。
 私の根回しに対して、一部の理事は、八木さん一人ではなくて複数副会長とすることを主張されたが、私は同意しなかった。八木さん一人とすることで、次は彼が会長に復帰することが明らかになる。これを譲るわけには参らないのだ。

3.懲りない面々、破局への道

 3月28日理事会、冒頭、八木、藤岡両氏から9月以降の紛糾に関して一言づつおわびの言葉があった。これは、今回の醜態にピリオッドを打って新しい段階へ進むための必要条件として多くの理事から要望があったもので、両氏がこれに応えてくれたことで、明日へと向かうべきこの理事会は始まったのである。
 報告事項を簡単に済ませた後、私は八木さんを副会長に任命し、7月総会で会長に復帰させることを提案した。その理由として、会員にも支持団体にも彼を待望する声が圧倒的であることを上げた。既にご覧の通り、私は先ず自分で八木さん復帰を決めたのであり、みんなの声はそれを補強するものだったのである。だが、それをありのままに表現して、「あなた方一人々と比較したけど、彼の方が優れているから」というなら、さなきだに彼の若さにひがんでいる一部理事の感情を無用に刺激することになるから、かように述べたのであり、これは長年会社人事の修羅場を潜って来た私の智恵というべきだろう。産経新聞の電話取材に対してもこの点を強調したのは当然である。

 しかるに、藤岡系の通信では、私のこの発言がなかった、などと争っている。では、「藤岡さんよりも誰よりも八木さんが適格だから会長へ」と正直に申し上げた方がお気に召したのだろうか?
 ちなみに、旧著の中で、私は、「100人の部下全員が右を指しても、自分の判断で左へ行くのがマネージメント」と述べている(『外資系の強さを日本企業で生かす82のポイント』1999年、第二海援隊)。元々ポピュリズムとは縁遠い男なのである。

 八木副会長就任は満場一致で可決された。ただし、彼が7月総会で会長へ復帰することは理事会の申し合わせ事項とし、暫くの間外部へは公開しないことにした。
 私は、次いで、理事間の内紛は一切やめること、過去に遡っての議論もやめ、将来へ向かっての議論に留めること、を提案し、いずれも可決された。
この理事会に関しては、一ヶ月以上経過した現在も、まだいろいろと論議している向きもあるようだが、主催者たる私としては、以上3点を決議事項とし、それに基づいてその後の施策を考えて行くつもりだったのである。
 理事のみなさんも、「よかったね、これで第二ステージ入りだね」の思いで散開されたはずだった。

 これまた一部でいまだに議論されている翌29日産経新聞朝刊の記事について、私は気にもかけなかった。新聞は、世界中どこでも、売らんがために、多少の勇み足やねじ曲げをやる。それに文句があるなら新聞社に対してやればいい。しかし、我が天動説論者諸君の反応は少しく違っていた。

 4月7日(金)切り込み隊長格の福地さんが面会を求めて来た。この記事の取材源は八木さんに違いない、査問にかけて副会長を解任すべし、というのである。私は開いた口が塞がらなかった。産経への抗議は行い、それに対して担当記者からの謝罪も寄せられている。取材源の追求なんぞ「会」とはなんの関係もない。私自身そんなことで時間を浪費する気もない。第一、強制捜査権もない私人同士でそんなことやっても、水掛け論に終わるだけなのはわかりきっている。
 私として許せないのは、第一に人事を任されて任命した副会長に任命後1週間でケチを付けられたこと、第二に内紛中止を決議した舌の根も乾かぬうち、またぞろ内紛を巻き起こそうというその魂胆である。私は峻拒し、その日のビールは舌に苦いまま二人は別れたのだった。

 藤岡さんの呪い活動も併行して進んでいた。産経新聞の記者を吊し上げ、取材源を追求し、挙げ句の果てには3月28日理事会の録音テープを彼に渡すことまでやっていた。
 申すまでもなく理事会は秘密会でありその議事録は機密扱いである。その録音テープをしかもジャーナリストへ渡すとならば、理事会の承認が必要だろう。それがなんかの理由でできないなら、少なくとも会長たる私の承認を得るべきだ。だが、呪いの闇に立ち迷った彼にはこの辺の道理も見えなくなっていたのだろう。独断で行ったのであり、その天動説ぶりに私は開いた口が塞がらなかった。

 4月10日(月)私は全理事の自宅へ速達便を送った。まず産経記者から私宛の謝罪のメールを、次いで八木さんが書いた、産経記者に対して語ったことの説明文を添付して、「これにて一件落着」とこれ以上この件で内紛めいたことはやめよう、と呼び掛けた。
 次に、産経記者のメールが、同社社長の決定を伝えているのも添付した。
「つくる会に関する報道をストップし、教科書問題取材班を解散」というものだ。「怪情報などの挑発に乗って内紛を繰り返すような組織は取材・報道に値しない」という。私は、フジサンケイグループにまで見放されかかっている危機を訴え、改めて内紛収束を呼び掛けたのだった。ちなみに4月末の私の辞任を同紙が報じなかったのはこの社長命令による。

 ところが、この速達が届いてそれを読んだ直後と思われる12日(水)、藤岡、福地両氏から呼び出しがあった。主役は藤岡さんである。
 彼の日本共産党籍に関する一連の怪情報に関して、八木さんが関与している証拠が上がったので、彼を査問し、放逐してほしい、という。なにやら大量の書類を準備しているが、私にはそんなものを見る気もなかった。彼や義父の問題として彼が取り上げるのは勝手だ。だが、それは「会」とはなんの関係もないことだ。
 理事会決議や私の方針を全く無視して自分勝手な闘争ばかり繰り返そうというその天動説ぶりに私はすっかり嫌気がさした。こんなことでは組織運営などできない。

 彼を辞めさせるのが正道だろう。だが、健康上の理由だけからしても、私の長期政権はありえず、また、それをやるには結局また多数決になるだろうが、今更多数派工作などやる気もなかった。私は、会長辞任を二人に告げた。
 その午後、八木さんに辞意を告げた。彼は、「私ももう限界だ。一緒に辞めましょう」といい、急遽鈴木事務局長代行を呼んだ。

 ブロック会を5月まで毎週続けることになっていたが、辞める、と決めた会長、副会長がそれをやるのは失礼に当たる。会員各位にはまことに申し訳ないけど、私の健康上の理由、とすることにした。一連のゴタゴタのせいもあってか、血圧、血糖値共高くなっていたのは事実なのだが。また、17日(月)、担当理事会を招集したばかりだったが、これもキャンセルした。残念ではあるが、辞めると決めた身が将来へ向かっての施策を論じてはならないのである。

 鈴木さんは、当初から藤岡ー八木両氏が連携するよう画策を重ねて来られた。それだけに我々の決意に深い失望を表明され、「もう一度お二人に話してみるから任して下さい」といわれたのだった。
 翌朝、彼からのファックスは、お二人が翻意されたこと、だからもう一度会談してほしいことを伝え、我々5名は再び丸の内ホテルの喫茶室へ集った。

 ところが、翻意どころか、藤岡天動説氏は、いきなり大量の書類をテーブルに並べて、八木氏を問い詰めにかかろうとした。私は鈴木氏を見つめ、彼は途方に暮れている。
 私がかような岡っ引き作業に与しないのは前日申し渡した通りだ。それに加えて、この喫茶室は大広間になっており、周囲は満員である。そんな中で書類を拡げ、大声上げて査問、聴聞の類を展開しようとは!
 八木さんのプライバシーへの配慮など皆無だし、周囲にどんな人がいるか、「会」の理事同士のそんな激論がどこへどう伝わりかねない、などへの配慮が欠落している点、やはり見事な天動説論者としかいいようがない。
私と八木さんは席を立ち、私は用意していた理事諸侯宛辞任通知を、参考までに保管しておくよう、鈴木さんに託した。
 私は最初その日に辞任するつもりだったのだが、そうすると、またぞろ内紛のそしりに上塗りすることになるから、せめて30日の理事会まで待ち、我々を選任してくれた理事各位におわびもし説明もしてから辞めることに変更したのである。この辞任通知が変な形で後日、日の目を見ることになる次第は後に述べる。

 私を推挙してくれた田久保忠衛理事にだけはこの間の推移を述べ、ご期待に添えなかったことをわびる手紙を出して、私の会長職はこの日をもって、1ヶ月半で、実質的には終わったのだった。

 4月30日(日)理事会の前日、田久保理事と電話で話した際、私名のファックスが届いていることを教えられた。4月13日付、全理事宛で、私と八木さんが同日付け辞任することを伝えている。この日丸の内ホテルで私が鈴木さんに渡し、ただし辞任は理事会まで待つので参考までに保管しておくよう依頼していたものである。
 発信人は福地さんで、彼の解説もついている。理事諸君がびっくりしないように、という親切な配慮なのだろう。だが、私が起案して記名しているものを第三者へ送るのなら、まず私へ断るのが常識だ。私が了承して、事務局から発信してもらうことになったかもしれない。それを、私に無断で、しかも自分の家から発信し、私には送らない、というのはこれまた見事な天動説ぶりである。文筆に手を染めることもある学者なだけにとりわけ許し難いところだ。まことに懲りない面々としかいいようがない。

 理事会では私と八木さんがたんたんと辞意を述べ、若干の議論はあったが、二人退席した。西尾日録で「4人組」と罵倒されながら八木さんを支えて来た若手理事諸君も袖を連ねて辞任、共に退席した。これで私の「つくる会」会長職は正味2ヶ月で名実共に終了したのである。

4.この騒ぎは一体?

1)読み違い 

 西尾、藤岡両天動説巨頭は、私について読み違えていたようだ。私を会長に据えておけば、私は西尾さんの「院政」に従い、藤岡さんの「傀儡」になって、彼等の思う通りに動く、と考えたのだろう。西尾さんがかって喝破したように、日本の大学、日本の学者は護送船団方式で動くから、その中では、その地位につければ人の後に付いて動いて行く。種子島もそうだ、と考えたに違いない。
 だが、どっこい、私は、サラリーマンではあったけれど、世界各地で自分で会社を立ち上げ販売網を築いて来た男だ。護送船団方式とはまったく無縁で、いつも自分の頭で考え、自分の足で歩んで来た男だった(『チャレンジ!わが人生』2005年、ミルトス)。自分として責任がとれないなら直ちに会長職を放り出すのも、護送船団の中では知らず、私としては当然の行為だったのだ。

 「想定外」の事態で会長に就任した私は、自分で考えて、八木会長復帰しかない、と思い定め、その実現に邁進したのである。
 「種子島の変節」を問題にする向きもある。藤岡派として会長に選ばれながら八木支持に廻ったのはなぜだ、ということである。だが、会長になった時点で、私は西尾も八木も藤岡も超越することに決めたのだった。社長が派閥に属したのでは経営は成り立たない。白紙の立場で、自分の頭で考え、八木さんを選んだだけであって、変節などではないのである。

 また、西尾さんの「日録」では、私が宮崎事務局長解任を唱えた張本人だ、とされている。私が副会長辞任時にそれを提案したのは事実である。それは人事の停滞を憂い、また八木会長が真に信頼する若手に代えた方がいいのでは、の趣旨だった。
 また、西尾さんたちが、宮崎さんの生活への配慮から、格下げ、再雇用などを考えるのはかえって残酷で、人事は一気に進めるべし、と忠告したに過ぎない。その後の、コンピューター問題をでっち上げての追及や、会長を無視しての事務局次長任命など、その後の混迷とはなんのかかわりもなかったのである。
 
2)「つくる会」が辿る道

 残念ながら、現在の「会」は解散するしかないだろう。7月総会を解散総会とし、会員各位におわびして解散するのである。幸いなことに、現在なら人様に迷惑をかけることなく解散できる程の資金はある。会社もそうだが、任意団体だって解散するにも先立つものは金なのである。
 「会」はもう「教科書をつくる」ことができない。扶桑社は、社長以下、藤岡さんに執筆を頼む気がないから、彼がいる限り(そして彼だけは最後の瞬間まで絶対にいる!)3年後の採択に臨むべき教科書ができないのである。
 扶桑社の教科書部門は10年近く赤字の連続、3年後の採択でも黒字転換の目途がないなら、社長として撤退を考えざるをえないのは当然で、産経社長の報道禁止命令はその前触れかもしれない。

 扶桑社だけでなく他の支持団体も「会」には愛想を尽かしている。各地の採択活動に支障が生じるし、募金に応ずる個人、団体もなくなるから活動資金に困ることになる。
 伊藤隆、中西輝政両氏など心ある理事諸氏の辞任も相次いでいる。更に、都道府県の支部もその多くが「会」を見限り、脱退者相次ぐことになる。どっちにしても、「つくる会」が存続できる目途はなく、7月総会で解散するしかないのである。

3)一縷の望み

 だが「つくる会」設立の意義は消えたわけではない。むしろ、正しい教科書の必要性は一段と増している。また、日本がそれを受け入れる余地はますます大きくなってもいる。
 なんとかこの運動を推進し、子供たちの教科書を改善して行くことはできないものだろうか?
 一縷の望みは、「会」を脱退した八木さんたち若手を中心に、呪いの要素が全然ない新しい組織を作ることだ。そしてそれを支持する基盤ができることだ。各方面に、それを待望する声は高く、この望みは十分に実現可能性がある。

4)この騒ぎは一体なんだったのか?

 第一に、従来の「つくる会」の問題点をはっきり天下に示して、それにトドメを刺すのに役立ったこと、第二に、八木さんたちを「呪いとの抗争」というまったく不毛の活動から解放したこと、そして第三に、「一縷の望み」を実現して行く出発点になること、である。
 だとすれば、古稀の老人たる私が2ヶ月間バタバタしたのも有意義で、毎晩の焼酎が一段とうまくなることだろう。

 今まで「つくる会」を支援して来て下さったみなさん、どうか八木さんたちの新しい活動へのご支援を賜りたく、そのお願いで終わることとしたい。

            平成18年5月26日、千葉の寓居にて

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