つくる会の体質を正す会
■注目の種子島経氏の特別寄稿はこちらです。(5月26日掲載)
■騒動の「構図」についての記事はこちらです。(5月10日掲載)
■騒動の「あらすじ」はこちらです。(6月6日掲載)
■「西尾幹二氏の言説の変遷」はこちらです。(6月20日掲載)
■「藤岡氏の八木氏に対する言説の変遷」は、
  (15)(6月14日掲載)、(16)(6月15日掲載)、
  (17)(6月17日掲載)、(18)(6月19日掲載)です。
■「藤岡氏の事務局員に対する文書攻撃」はこちらです。(14)(6月11日掲載)
■西尾氏に対する訂正要求はこちらです。[資料編(1)]
  (5月12日3段目掲載の記事)
■藤岡氏への再質問はこちらです。[顛末記(5)](6月4日掲載)
■鈴木氏の人物については、こちら(5月24日掲載)とこちら(7月5日掲載)です。
■渡辺記者の反論については、こちらです。(5月25日掲載)
■西尾・藤岡両氏の「謀略」の可能性の立証については、こちらです。(7月3日掲載)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
201708<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201710
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
雑感・つくる会の逝きし日々(2)ー三重県支部設立のころー
松浦光修
                      
 私が「つくる会」と関係するようになったのは、平成10 年も暮れるようとする12月も半ばであった。もう八年も昔のことになる。翌11年5月、思いもかけず「三重県支部」の設立を任されてしまい、暗中模索ながら、同年10月3日、ようやく支部の設立にこぎつけた。この間のおよその経緯は、拙著『いいかげんにしろ日教組』(PHP研究所・平成15年)に記しているが、まことに「一からの」そして「手づくり」の、支部設立であった
 「支部長は、ぜひとも地元の名士に引き受けてもらいたい」と考えた私は、いろいろな方を訪問したが、むろん地元の名士で、そんなことを喜んで引き受けてくださる方など、そうそういるものではない。何人もの方をあたったが、次から次へと断られた。私は、まずこの段階で「つくる会に対する世間の風の冷たさ」に直面せざるをえなかった。最後の最後になって、ようやく引き受けてくださったのが、昨年12月 25日、享年96歳をもって帰幽された神社界の長老で、かつ神道学者としても著名であった櫻井勝之進氏である。
 支部長探しの次は、設立大会の準備で大忙しであつた。当時、実質上の協力者は、事務局長を引き受けてくださっていた三木茂一さんだけであった。しかし、三木さんはワープロもパソコンも使えない。だから大会当日に配布する資料の入力・印刷・袋詰めなどに限っては、私が、ほぼ一人でやっていた。今でも、そのころコツコツ入力した全県下の教育委員会の住所録などが残っている。もつとも、「平成の市町村合併」がすすんで、それももう…なかば意味のないものになってしまつたが…。
 
 役員となっていただく方々への就任依頼、講師への講演依頼、会場の選定や準備、招待状や案内状の作成、寄付集め、アルバイトの手配、懇親会の計画などなど…仕事は無数にあった。たとえば、懇親会の計画一つでも、会場の準備から、出すビールの本数まで、私は三木さんと、すべて一々、電話で相談しながら決めていたものである。支部設立の平成11年の総会・講演会は、何もかもはじめてのことであったので、特に気苦労が多かった。三年ほど前からは三重県支部にも、強力に応援してくださる方が何人も見あらわれ、かなり仕事は楽になったが、その平成11年の支部設立から昨年まで、ともあれ私は、ほぼ毎年一度、総会・講演会を開催してきた(それも結局のところ、昨年の秋に行ったものが、私としては最後のものとなったが…)。
 私は昨年の総会・講演会まで、多忙な研究、教育などの本務…、また増え続ける講演依頼、執筆依頼などを受けるかたわら、一方では、そんな地道な作業も、同じようにつづけてきた。しかし、その経験を通じて、私は、ただそれだけのことに、どれだけの労力や支援が必要なのか、そして、ただそれだけのことに、どれだけ多くの方々の「気くばり」や「まごころ」が必要なのか、ささやかながら、「体感」してきたつもりである。
 そういえば、あまりの忙しさに閉口して、私は三木さんに「もう支部長やめたいんですが…」と、よくグチをこぼしていた。そのたびに三木さんは、「がんばりましょうや」と私を励ましてくださった。しかし、三木さんも、時に事務局長の忙しさに閉口して、「松浦先生、もう私は…」と、暗に私に辞任の希望を伝えるため、わざわざ伊勢まで出向いて来たこともある。その無言の訴えを、私はわかっていて(申し訳ないことながら)気づかぬふりをしつづけ、結局のところ、辞任を諦めてもらったこともある。励まし、また励まされ…、その人間関係の機微の中から生まれるものこそ、真の意味で「国を思う人々のネットワーク」なのであろう。少なくとも私は、同志である「事務局」の人々に対して、敬意のかけらも払わない(払えない)人々が、偉そうに「美しい日本」について語る資格はない、と思っている。
 ともあれ、地方支部とは、そのような純粋、かつ無私の方々の、いわば涙と汗の結晶を組み合わせつつ、構成されているものなのである。愚かな私ではあるが、これまでの理事の中で、その点を熟知している点にかけては、決して人後に落ちるものではない、と自負している。いつたい、これまでの「つくる会」の理事で、そんな地方の現場を「体感」してきた人物が、何人いるであろうか?。私が理事になって、すぐに理事会の空気に「とても気持ちの悪い何か」を感じたのも、あるいはそうした現場経験を長く積み重ねていたせい…かもしれない。
         ☆          ☆
 はるか昔…、建武三年のこと、京都で公家たちが「詮議」をしていたが、その「詮議」は、ある愚かな公家の扇情的な発言にひきずられていた。やがて彼らは、現場を最も知っていた楠木正成の建策を退け、いかにも公家くさい、虚栄心に満ちた、現実離れした作戦計画を決定してしまう。そして、その愚かな作戦によって正成は「討死」し、やがて「建武中興」は瓦解していく…。今の私には、なにやらこの半年の「つくる会」の理事会が、その公家たちの「詮議」と、どこかしら似ているように思われてならない。
         ☆          ☆
 すでに理事を辞任した今、時に私は三木さんと一杯やりながら、ゆっくりと三重県支部設立のころの思い出話でもしたいものだ、と思うのであるが、もはやそれは、かなわぬ夢である。三木さんは平成16年2月14日の早朝、大変な交通事故にあった。幸い命はとりとめたものの、事故後は、もはや会話することさえままならない。三木さんは今、ご家族の暖かい介護を受けながら、静かに療養生活をつづけている。(平成18年5月17日 記す)  
        
                        
                        
スポンサーサイト
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。