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つくる会の体質を正す会
■注目の種子島経氏の特別寄稿はこちらです。(5月26日掲載)
■騒動の「構図」についての記事はこちらです。(5月10日掲載)
■騒動の「あらすじ」はこちらです。(6月6日掲載)
■「西尾幹二氏の言説の変遷」はこちらです。(6月20日掲載)
■「藤岡氏の八木氏に対する言説の変遷」は、
  (15)(6月14日掲載)、(16)(6月15日掲載)、
  (17)(6月17日掲載)、(18)(6月19日掲載)です。
■「藤岡氏の事務局員に対する文書攻撃」はこちらです。(14)(6月11日掲載)
■西尾氏に対する訂正要求はこちらです。[資料編(1)]
  (5月12日3段目掲載の記事)
■藤岡氏への再質問はこちらです。[顛末記(5)](6月4日掲載)
■鈴木氏の人物については、こちら(5月24日掲載)とこちら(7月5日掲載)です。
■渡辺記者の反論については、こちらです。(5月25日掲載)
■西尾・藤岡両氏の「謀略」の可能性の立証については、こちらです。(7月3日掲載)
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もう一つの「つくる会」顛末記(5)ー目的の再確認ー
藤岡先生のお答えに対応して、最後に【補足2】を加えました。

 このブログでの平成17年12月15日付「会長声明」関係資料の公表によって、「つくる会」騒動前半の資料紹介がすみました。そこで、中締めの意味で、あらためて、このブログの目的を確認してみたいと思います。

 私がこのブログを主宰している意図は次の三つです。

①.西尾幹二氏から四理事(内田、勝岡、新田、松浦)に浴びせられた「突然の挑戦状」「異質の集団の介入」「問答無用のなじめない組織的思考」「討論を許さない一方的な断定」「対話の不可能という現象」「全共闘的な圧力」といった非難が、事実無根の誹謗中傷にすぎないことを明にして、汚名をそそぐこと。あわせて、日本会議や日本青年協議会や日本政策センターなどの関係団体に浴びせられた汚名をも晴らすこと。

 この①については、ほぼこれまでの連載で目的を達成することができたのではないかと思っていますが、それでもまだこのブログは書き続けようと考えています。その理由は次の二点にあります。

 ②.昨年12月の時点で創業者の横暴に気付いてしまった八木氏が、その後、執行部の中で孤立しつつも、会の分裂を避けるために、如何に「誠実にもがいたか」、他方、創業者の圧力と、それに同調した副会長たちの非協力が、如何に酷いものだったか、それを読者にお示しし、八木氏に対する「指導力不足」という非難が、事実を全く転倒させた言いがかり、と言うよりも、意図的に演出された陰謀に近いものであったことを明らかにすること。
 さらに、この騒動の過程で、もっとも弱い立場にあった事務局員たちが、如何に苦しめられたかを明らかにすること。

 ③.多大の期待を担って出発し、はなばなしいとはまでは言えないかもしれませんが、かなりの実績をあげてきた「つくる会」の運動が、今日のような混乱と分裂に陥り、深い失望と傷を多くの人々に与える結果になってしまったことにかんがみて、二度とこのようなことが繰り返されないために、その原因について関係各位がよく考え、自分なりの教訓や反省や展望が得られるように、出来るだけ正確に事実を記録として残し、情報公開すること。それこそが運動に深く関わってきた者としての社会的責任を全うする所以だろうと考えていること。

 ③について言えば、今回の騒動の大きな原因が西尾・藤岡両氏の行為にあることは間違いないのですが、しかし、二人を悪者にすればそれで済むのかといえば、そんな単純なものではないと思います。
 例えば、その他の理事の会に対する態度・考え方・行動などの問題、支部や事務局に対する無知・無理解の問題、「一プロジェクト・一組織」という会のあり方そのものの問題、創業者の自覚・進退・処遇の問題、後継者の育成や有為な若者の育て方の問題、関係団体についての知識や配慮などの問題等々、あげていけば切りがないほどです。

 今回の紛争で、私たちは会員や他団体の方々に多大のご心配とご迷惑をかけてしまいました。それについてはお詫びのしようもありません。
 しかし、私たちが会を去ったことによって紛争の根が断たれたのかと言えば、決してそうではありません。「つくる会」現執行部は、八木グループが去ったことによって禍根は断たれたと言うのでしょうが、私たちの目から見れば、内紛を連続させてきた本当の病根には未だに何らメスが入れられていません。ですから、このままの在り方で「つくる会」が続くならば、必ずやまた内紛を起こし、会員や関係団体に迷惑をかけることになると思います。
 しかし、それが分かっていても、もう私たちにはどうすることもできません。ですから、せめて、「つくる会」のこれまでの在り方についての情報をできるだけ開示することによって、会員や関係団体の人々が「つくる会」との関係を考え直す際の根拠を提供したいと思っているわけです。

 そうやって「つくる会」の等身大の姿を明らかにすることは、幻滅を伴うものであることは間違いありませんが、だからと言って、「つくる会」10年の歩みの意義が失われてしまうわけでも、この運動にはせ参じた人々の努力が無駄になってしまうわけでもないと私は思います。むしろ、その問題点を直視して、素直に反省すれば、もっと明るい、もっと大きな未来が見えてくるのだろうと思います。
 ですから、私の時間の都合もありますが、このブログをいつまでも続けるつもりはありません。むしろ、出来るだけ早く、役割を終えて、次の段階に進みたいと思っています。

 なお、私たちが「つくる会」を去ったことについて、「怪メール問題」についての弁明ができなかったからだと、現「つくる会」幹部は主張しているようですが、それは偽りです。
 私たちが去ったのは、種子島前会長の言葉に端的に表れているように、内紛の根本原因の一つである藤岡氏が全くそれを自覚も反省もせず、したがって、改めるつもりも退くつもりも無いことを明言され、しかも、他の理事達も彼に反省を促さず、去ろうとしている種子島氏や八木氏を弁護することも引き留めることもしない様子を見て、もはや、この会を立て直すことは不可能であり、この会に固執しても時間を無駄にするだけだと考えたからでした。

《補足》
 西尾先生が「顛末記」を再開され、「つくる会」の過去の思い出を書いておれらます。これは私の問いや要求に対する西尾先生なりの答えだと思うのですが、どうも私が求めていることとはずれているような気がします。
 西尾先生が書いておられることは、さまざまな問題について「どうして、自分が、そう思ってしまったのか」という理由の説明にはなっているでしょうが、「事実そうだった」という証明にはなっていません。
 私は西尾先生とお話ししていて「この方は、20代の青年ではないか」と思ったことがしばしばあります。しかし、私がいくら西尾先生を20代の青年だと思ってしまった理由を説明しても、西尾先生が70代である事実に変わりはなく、西尾先生が20代の青年であることを証明したことにはなりません。
 ですから、繰り返しますが、西尾先生が、いくら自分の思い込みの理由を説明しても、事実の証明にはならないのです。

《補足2》
 藤岡先生がブログで私の質問の一部に答えて下さいました。そこには、大変意義深い言葉がいくつか含まれていますので、まず、それ指摘したいと思います。次に、また新たな嘘や言い逃れも付け加えられていますので、それを指摘したいと思います。

【意義】
①.藤岡先生の「今でも椛島氏をつくる会にとっての最大の恩人の一人だと思っている」「日本会議がつくる会の人事に介入した事実はない」との証言により、西尾先生ならびにそれに追随した学生諸君の関係他団体に対する非難が事実無根のものであったことが明かとなりました。これでようやく「あわせて、日本会議や日本青年協議会や日本政策センターなどの関係団体に浴びせられた汚名をも晴らすこと」という本ブログの目的の一部が達成でき、とても嬉しく思っています。

②.藤岡先生は、私が公開した資料に対応して、「日本会議以下の具体的な団体名を列挙したことについて、宮崎氏は、そういう具体的な名前は言っていないとして、この私のメモを批判している。しかし、この前後の時期に、いろいろな場面で類似のことを宮崎氏が述べていたことを耳にしていたので、私の記憶の中ではそういう団体名がインプットされていたのは間違いないが、宮崎氏がその場でこれらの団体名を列挙したのかと言われると、確かに私にもそれほどの自信はない。だから、上記のメモのうち、当該箇所を、《(3)宮崎事務局長を辞めさせれば、有力な諸団体が、つくる会の支援から一斉に手を引く。》と訂正したい」と述べられました。
 これはご自分が虚偽を広めてきたことをお認めになったということですから、大変勇気ある行為だと思います(ただ、そこに宮崎氏への謝罪がないのは不可解ですか)。あとは、最後にある「有力な諸団体が、つくる会の支援から一斉に手を引く」と言ったという部分を、宮崎氏の証言通り、「宮崎が事務局を辞めたらこれまでのように協力出来ないと言明し、事務局に留まるよう要請された有力団体もある」と訂正されれば完全に事実と合致することになるでしょう。

③.「5月24日に店頭で発売された雑誌『SAPIO』(6月14日号)に掲載された西尾氏の「私が『新しい歴史教科書をつくる会』を去った理由」という文章の中には、次のような一節がある。/《昨年の秋に八木・藤岡の両氏が椛島氏を訪ね、宮崎更迭を理解してもらえないかとお願いしたところ、「宮崎君を何とか雇っておいてください」の一点張りであった。》/私も八木氏も、「宮崎更迭を理解してもらえないかとお願い」していないし、椛島氏が、「宮崎君を何とか雇っておいてください」の一点張りであった、という事実もない。私は西尾氏に、椛島氏が「宮崎君を何とか雇っておいてください」の一点張りであった、などという報告はしていない」との証言により、この八木・藤岡・椛島会談に出席していない西尾氏の記事が、完全な虚偽であることが明らかになりました。これによって、西尾氏ならびに『サピオ』編集部は、椛島氏に対して、訂正し、謝罪する義務が生じたと思います。

【嘘と言い逃れ】

①.藤岡先生は「今でも椛島氏をつくる会にとっての最大の恩人の一人だと思っている」と言われていますが、それが心からのものとは思えません。その理由は次の三つです。
1)西尾氏の日本会議など対する非難は3月7日からはじまっていたのに、それをずっと放置してきた。
2)西尾氏が八木氏に、昨年9月17日に「神社(日本会議)・幕屋では採択はとれない。支部幹部を大幅に入れ替える必要がある」と言い、12月1日には「神社右翼、宗教右翼を追い出せ」と言った時に、その場にいながら藤岡先生は西尾氏に反論しなかった。
3)八木・藤岡・椛島会談を終えた後で、藤岡先生は八木氏に「しょせん『つくる会』は日本会議の支店みたいなものなんだ」と語った。

②.藤岡先生は「12月12日付け八木会長あて4理事声明では、『採択戦の総括』のために宮崎氏を事務局長職に留めておくべきだという論点を打ち出しているが、それは口実にすぎない」と書いています。ところが、12月13日の私への電話では、総括の後に人事をすべきだとの私に意見に対して、藤岡先生は「僕もむしろそっちの考えだ、つまりそちらを正面から議論したい」「ボタンの掛け違いだね、我々の責任ですね」「原則的には、それは全然、賛成ですよ」と言われておりました。
 この点について、藤岡先生がそんな発言はしていないと否定されるのであば、私には証拠として音声資料を公開する用意があります。
 したがって、「4人組の本当の目的は、宮崎事務局長の処遇問題を解決することではなく、この問題を奇貨として利用し、つくる会を乗っ取ることだったのである」という結論も虚偽だということになります。

③.藤岡先生は 「宮崎氏は『円満退職』案を個人としては受け入れかかったのである。それを妨害したのは、4人組である。執行部は宮崎氏と交渉しているのではなく、氏の背後のグループと交渉しているようなもの」「問題が解決しそうになると、ことごとく妨害する。今回の紛争の元兇は4人組らの小グループであり、その首謀者格の人物こそ、新田均氏その人なのである 」と書きながら、他方では、「今では、(松浦氏を除く)彼らが宮崎氏と大学時代から宗教的信念と政治的立場を共有する学生運動組織に属し、強固な同志的結合体をなしていたことを私たちは知っており、そのグループの中でも宮崎氏は指導者格であったことが分かっている」とも書いています。
 もしも、私たちが「強固な同志的結合体」をなしており、「そのグループの中でも宮崎氏は指導者格であった」のなら、何故、宮崎氏が「『円満退職』を受け入れつつあった」のに、私が異議を唱える必要があったのでしょうか、また、異議を唱えることができたのでしょうか。これは明かな矛盾です。この藤岡先生の物言いは、 むしろ、私たちの間には、宮崎氏を指導者とする学生時代以来の強固な同志的結合などなく、ただ、個人の信条に基づいてた行動があっただけだということを証明しているのではないでしょうか。
 ところで、藤岡先生の主張するように、私を首謀者とする四人組の「つくる会」乗っ取り計画が今回の紛争の元凶であったとすると、それと中国による工作とはどんな関係があったというのでしょうか。 まさか、「つくる会」の四人組は、本場の四人組の子孫だったとでもいうつもりではありますまい。

 なお、藤岡先生にお答えいただいたのは、大変有り難いのですが、何故、12月15日の「会長声明」発表後に、宮崎追放・八木追及に急旋回されたのかについては説明がありません。私としては、西尾先生のお怒りに動かされてのことだと理解しておりますが、それでよろしいでしょうか。また、八木訪中を知っていながら問題にしなかった理由についても、次には、お書きいただきたいと思います。

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